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挫折のすすめーそれ、無駄な努力かも

お釈迦様は、決して聖人君子ではありません。お釈迦様のような人でも、大きな挫折を経験しています。しかしこの大きな挫折が無ければ、悟りを開くことができませんでした。そう考えると、挫折は成功するための条件なのかもしれません。

お釈迦様は悟りを開くために、厳しい修行を自分に課しました。
「悟るために、まず食欲を断たとう」

お釈迦様は一日一食にしました。しかし食欲は消えません。
「食事の回数を減らしたことで、逆に食欲が逆に強くなってしまった。今日から二日に一食にしよう。それでもまだ食べたいという欲が湧いて出てくるならば、一週間に一食にしよう」

お釈迦様は食事の回数を極限まで減らし、食事の量も梅干し一つにしました。それでも食欲が消えないため、お釈迦様はついに食欲を無くすことを考えました。
「食欲を無くすために、ご飯の代わりに牛や自分の糞尿を食べよう」

これほど努力してもお釈迦様は悟れません。お釈迦様は苦行しても悟れない理由を考えました。
「どんなに食べる量を減らしたり、食欲を無くそうとしても、食べていることには変わりはない。食べたいという欲があるから悟れないのか。そうであれば、いっそのこと何も食べないようにすればよいのか」

お釈迦様は一切食べない断食に入りました。日が経つにつれて、お釈迦様はみるみると痩せていきました。目も窪んで、筋肉がすべて削ぎ落とされ、あばら骨のかたちがくっきりと皮膚の上から浮かび上がるほど、痩せた身体になってしまいました。

釈迦 激やせ

立つこともままならいほどやせ細った身体に、お釈迦様は「これから真冬の山に入って、雪が降ろうとも強い雨風が吹こうとも瞑想し続けよう」と、更に苦しみを課すことにしました。

それでも結果は同じでした。
「なぜこれほどまでに苦行しているのに悟れないのだろうか。苦しみが足りないのか。更に苦しみに打ち勝たなくては、悟ることはできないのか。もっと苦しみが必要だ。そうだ、息を止めればきっと苦しさが増すに違いない」

厳しい冬山の環境のなかで、やせ細った身体で呼吸を止めて、意識が朦朧(もうろう)のまま瞑想していたある時、お釈迦様の頭とお腹に激痛が走りました。
「頭が割れそうだ…お腹は針が刺さっているように痛い…。苦しい…もうだめだ…。いや、それでも私はこの苦痛に打ち勝たなくては…」

こうしてお釈迦様は、何とか苦行に耐えながら、厳しい修行を六年間も続けました。それでも結局、お釈迦様が悟ることはありませんでした。

お釈迦様は、悟れない原因をいろいろと考えました。
「どんなに身心を痛めつけても、全く悟る気配がない。苦行は意味がないのか。だからと言って、苦行を止めて楽をしたら悟れるのか。苦しんでも贅沢しても人間は結局は死んで逝く。だったら贅沢する必要はないし、身心を痛めつける苦行を積む必要もないではないか」

そして、お釈迦様はひらめきました。

「そうだ、これは心の問題に違いない。悟りたい、悟れない、苦行を続けるべきだ、止めるべきだ、こんなことを色々と考えること自体が苦しみの元ではないか。食べる、食べない、苦しい、楽しい、といった二者択一の考えにとらわれる心を捨てよう。もうこんな努力が報われない苦行はやめだ」

こうして、お釈迦様は、今まで努力して積み重ねてきた苦行の努力を捨てる決意をして、苦行を止めてしまいました。

お釈迦様は、近くの河で沐浴して身を清め、恵んでもらったミルク粥を食べ、身心を調え直して、菩提樹の下で安らかな気持ちで坐禅をしました。そうすると、お釈迦様の身心は徐々に回復していきました。

菩提樹の下で坐禅を始めて四十九日後、お釈迦様はついに一つの結論に至りました。

「何事も極端な考えはしてはならない。何でもほどほどがよいのだ。ああだこうだと何も考えなければ、そもそも苦しみは生まれない」

これがお釈迦様が最初にお悟りを開いた時の話です。お釈迦様のような方でも、挫折しています。お釈迦様は、努力してもダメなものはダメと開き直りました。そして気持ちを切り替えて、今までの方法とは別のやり方で次に進むことにしたのです。その結果、大きな成果を得ることができました。

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