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一人の禅僧の言葉が、戦後日本の平和をもたらした!

芳吉は、旅宿の子として生まれましたが、子どもが多かったため近所の家の養子に出されました。青年期は熊野川の筏渡として働きましたが、眼の病気にかかってしまい、医者からは「治療しても治らない、いずれ失明する」と宣告されました。

そこで、芳吉は、眼が見えなくなるまで四国遍路八十八か所を何回も巡礼することにしました。芳吉は身体を酷使し7回目の巡礼に向かいましたが、土佐三十三番の雪蹊寺で倒れてしまいました。

雪蹊寺住職の太玄和尚は、芳吉を手厚く介抱してあげました。芳吉の体力は回復しましたが、何度も八十八か所を巡礼しても心は癒されませんでした。「帰るところもない、眼も見えなくなるから仕事にも就けない、もう生きていく意味がない」と自暴自棄になっていた芳吉に、太玄和尚はこう言いました。
「だったら坊さんになればいい」
 芳吉は驚きました。
「私はもう片目は見えません。もう片方の目もいつか見えなくなるでしょう。ですから字も読めません。こんな私がお坊さんになれるのでしょうか」
「普通の坊さんにはなれん。しかし本当の坊さんならなれる」
 この言葉を聞いて芳吉の心に新たな希望が生まれました。
「私でもお坊さんになれるのか、しかも本当のお坊さんに」

そして芳吉は25歳の時、太玄和尚から玄峰という僧名をもらって得度しました。玄峰は「本当のお坊さん」になるために一生懸命修行に励みました。線香3本を束ねて光を作り、あまり見えない眼を駆使しながらお経を練習し、必死に字も覚えました。
数十年後、芳吉は若手の修行僧を指導するまでの立派な「本当のお坊さん」(老師)になりました。

33せんげんじ


そんな玄峰老師にはこんな逸話があります。
第二次大戦末期、鈴木貫太郎大将が玄峰老師のもとを訪れて相談しました。
「どのようにしたら、この戦争を終わらせることができるでしょうか」
玄峰老師は、即答しました。
「一日も早くこの戦争は終わらせなければならぬ。そのためには負けて勝つしかあるまい」

鈴木大将は、玄峰老師を訪れた1週間後に総理大臣に就任し、8月12日の早朝、鈴木総理の使者が玄峰老師に終戦の決意を伝えに来ました。玄峰老師はその使者に手紙を渡しました。
その手紙にはこう書かれていました。
「総理、日本へのご奉公はこれからが本番です。そのためにも健康に十分留意され、どうか忍びがたきをよく忍び、行をじ難きをよく行じて、国家再建のためにご尽力していただきたい」
 この玄峰老師の言葉が、8月15日、終戦に発せられた「朕は時運の趨く所、耐え難きをを耐え、忍び難きを忍び、以て万世の為太平を開かんと欲す…」という詔勅になりました。

またこんな話も残っています。
終戦後、憲法改正委員を務めていた樽橋渡内閣官房長官が玄峰老師を訪れて相談しました。
「占領軍は天皇制を無くそうとしています。しかし日本は建国以来、万世一系の天皇によって治められてきました。敗戦した今の日本から天皇がいなくなれば、この国は大変なことになります。しかし、今までのような主権者としての天皇は許されません。これから新しい憲法を作っていく上で、天皇はどのようなお立場であればよいでしょうか」

玄峰老師は、じっくり考えて答えました。
「日本は今までずっと天皇の徳によって治められてきた。天皇は太陽のようなご存在だから、政治の場からお離れになって、太陽のように万民を照らす象徴であればよいのではないか」

この玄峰老師の言葉が、天皇制を救い、平和憲法公布につながりました。

その後、玄峰老師は、82歳の時に臨済宗大本山妙心寺管長に就任されました。

管長を退任された93歳の老師は、「昔は、あの人に厳しいことを言ってしまったが、申し訳なかった。すまんことをしたなあ」と、本尊様に頭を下げることもあったそうです。敗戦後の日本の行く末を決定づけるほどの影響力ある言葉を発し、大本山の管長まで務められた93歳の偉人であっても、なお謙虚な態度で一生過ごしました。

山本玄峰



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