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【Digression】MittelとかMitteとか

例のごとく、専門的な話でも、アカデミックで精緻な議論の上での話でもない、正確さや厳密さよりも言いたいこと(あるいは思いつき)優先の「個人的な、あまりに個人的な」見解あるいは妄言です。

(コンピュータだけでなく広義の)ネットワーク通信について、ふと思ったこと、、、

「何を」伝えているか、という「内容」的側面と「どのように」伝えているか、といういわば「形式」的側面について、技術的な見識を問う際は、こちらの形式的側面がよく主題となる、と思う。

※「内容」とは何か、「形式」とは何か、それらは容易に切り分けられるものではないのではないか、という点は興味深いし、少なからず今回の話にも関係はあるが、私には力不足かつ大変面倒なので、とりあえず置いておく。どこかで、内容の「客体」性、形式の「主体」性という一見すると相反しそうな組み合わせについても書こうと思う(多分)。

この「形式」的側面について、調べたり、考えたりする際に、つまり通信って何ってなったり、「どのように」通信が成り立つのか、ということを考えたりするときに、実はこれが、いくつもの層に分かれていることがなかなか(私のような)門外漢にはわかりにくい。

これは何も、通信プロトコルの何層とか、ネットワークのアーキテクチャとかいう大仰な話まで及ばずとも、もっと身近なところの話でもある。

例えば、「通信とは何か(どのようになっているのか)」を、調べようとしたときに、先にもいった「どのように」の部分が、実はさらに「何で」という媒体的なニュアンスと「いかにして」という手法的なニュアンスが問われなければいけない、ということが分かりにくいのである。

これは、抽象化した際には、AとBの間にそれをつなぐような「手段Mittel」あるいは「媒介Mitte」を想定するようなすっきりとした形になる。

しかし、より具象的なところ、つまり実際にそれらを物理的にインフラとして実装したり、開発する際に構築したりする際、あるいは、利用者として何かを選定する際には、それらは先にも言ったように区別されなければいけない。

論理的(仮想化された)媒介と物理的(実装上の)媒介

仰々しい見出しになってしまったが、冒頭でいったように専門的でもアカデミックでも何でもないただの妄言なので、軽い気持ち(広い心)で読んでほしい。

言いたいことは簡単で、抽象的なモデルで話をするときに持ち出される「何で」(あるいは媒介Mitte)と具象的あるいは、複数の階層にまたがった話をするときの「何で」(あるいは媒体、手段Mittel)とを、分けて考える、ということが念頭にあると、調べる側も説明する側も楽だよ、というか勘違いや混乱が少なくなるのでは、という話。

というか、説明する側には、それらの区別があることが分かっていても、聞いたり調べたりする側からすると、そういった前提がないから、そうした(縦にも横にも広がる)多様な層があることを、あらかじめ提起しておいてほしいな、という私の願望です。

いつもそうだけど・・・

何の話をしているのかよくわからないと思うけれど、自分でもよくわかっていないので、ご了承ください。

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