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【Digression】技術、発展とイデオロギー(1)

たいそうなタイトルを掲げてしまったが、そんな大仰な話をするつもりはありません。例のごとく、専門的な話でも、アカデミックで精緻な議論の上での話でもない、「個人的な、あまりに個人的な」見解です。

「(科学)技術に善悪はなく、使う人間の善し悪し」は本当か

「本当か」、というのは問いとしてどうなんだ、と思うので、どちらかと言うと「そもそも、社会的文脈から切り離された(科学)技術や発展というのを容易に前提できるのか(あるいはできないのでは)」、というニュアンスで進めていく。

平たく言うと、普遍的(一般的)、絶対的に「発展的」であると言える技術ばかりではないのではない(あるいはそんなものがあるの?)でしょうかという話である。または、ある技術の誕生(開発、発見)が、常にその技術が生まれる以前より「正しく、善い」状態である、と言えるわけではないのではないしょうか、と言う話である。

もちろん「善」とかいう、「倫理的」、「価値評価的」概念と言われがちなもの自体が、本来、どのような社会的背景(コンテキスト)で用いられるかに依存する、と言う議論や、そもそも「善」「正義」、あるいはそれらと区別されるような「真」などの概念についてもっと精緻で、綿密な議論が必要なのではないか、というご指摘はごもっともですが、それらの議論を持ち出さずとも、 ̶と̶い̶う̶か̶面̶倒̶な̶の̶で、もう少し手前で考えられることがいくつかあると思う。

ちょっとした懸念とモヤモヤの整理

上記のような、「価値評価」か「事実記述」かの問いに関わる概念ではなく、 ̶こ̶れ̶ま̶た̶面̶̶̶倒̶̶̶な̶̶̶の̶̶̶で̶、それらの概念と対応づけられる側の、あるいは評価される側、記述される側の概念の方を少し見ていく。(「価値評価」と「事実記述」と概念、分類自体が、単純に可分なものか、あるいは正当な対立軸の取り方かは、また別の機会に考えるかもしれない)

つまり、「真」、「善」とかでなく、「(科学)技術」、「発展・開発」とかについて、少し検討していこうと思う。

仮にも、(そう呼んで良いのであれば)エンジニアの端くれとして、何かを開発する、技術について知見を高める、深める、と言うことについて、はなからケチをつけるようなつもりはない。

ただ最近、研究機関や教育機関の方と関わるなかで、(もちろん人それぞれなのだけれど)、意外と技術や発展について、反省的視点を持つ人ばかりではない、のだなと言うのを肌で感じることがあった。

これは別に、技術開発や、技術研究に携わる人間は、それを顧みることがない奴ばかりだ、と言う意味ではもちろんない。

むしろ、そうした専門家や研究者の多く、あるいは指導、牽引する側の方は、そうした面についても敏感で、自己批判的な姿勢を持ち合わせているように思う(少なくとも自分の限られた出会いや関わり合いの中では)。

だからこそ、その一旦を担う人の中で、そうした側面について思いを馳せることのない(ように見える)方と接した時に感じた形容し難い気持ちを、ふとした瞬間に思い出したので、整理していく(決して批判的な意図によるものでは、全くもって微塵も断じてない)。

「(科学)技術」とか「発展(開発)」っていうけれど・・・

技術って何?、発展(開発)って何?と言われた時に、「それによって便利になること」や「新しいものを生み出すこと」など、色々あるだろう。

具体個別の事例を挙げて、これが〇〇、というのは、反例を持ち出しやすいので、こういった場合には適さないかもしれない。

なので、例えば、少なくとも「その存在が、選択可能性をもたらすもの」といったあたりで考えれば、なかなかもっていい感じに、「技術」や「発展」について、少なくとも好感をもてる形に規定できるじゃないかと思える。

つまり、「技術」や「発展」は、「我々」の「できること」や「能力」を拡張してくれる、もの(こと)である、という考え方である。

こうした観点にたてば、「技術」「発展」自体を悪く考える余地はないように思える。

ここまでくると、一見「技術(発展)は、「善・幸福(の増幅)」である」ぐらい極端な定義の一歩手前くらいにも思える。

しかしながら、「能力」「できること(選択肢)」の増大をもたらす、ということは、それ自体が恩恵であるか、どうかというそもそもの点と、その恩恵の帰属先が誰(何)なのか、という点から、批判的に検討しうることが考えられる。

このうち前者はなかなか、泥沼化すること請け合いなので、(まだ少しは)足を踏み入れやすい(が掬われもしやすい)後者の話に、絞って見ていこう。

誰にとっての「技術」「発展」なのか

とはいえ、正直、この誰にとっての、利益の帰属主体(客体)についての議論は、当然上記前者の議論とも簡単に切り離せるものではない。

そこで、議論を(さらにさらに)簡単にするために、その「技術」「発展」を利用するもの以外に、余計な利害関係者が登場しにくい事例を考えてみよう。

例えば、メガネ、コンタクトレンズ、車椅子、などを考えてみよう。「技術」や「発展」といってきたのに急に身近なものすぎて、拍子抜けするかもしれないが、何世紀(800年くらい?)遡れば、メガネだって立派な世紀の発明だったかもしれない。また上記の定義になぞらえてもなんら問題ないだろう。これらの「技術」は、その利用者が、一個人的であり、一個の身体と紐づくものであり、かつ、補正的機能という側面が大きい、という点で、余計な利害関係者や、考察すべき雑多な点が少ないように思える。

さて、これらの身近で補正にフォーカスしたものは、つまりはそれ自体、ある標準的な状態を想定していることがわかるだろう。
つまりは、「健康」なるスタンダードを決めてそこからのズレを補正する、というものである。

標準とは何なのか

ここで標準とは何か、という割と重要そうな話題にたどり着いた。
さて、ようやくここまで来たわけだが、
メンタルよわよわエンジニアの私にはあまり一度に長々書く気力がなく、とても面倒臭い上に、ちょっと書くのに飽きてきた議論の整理と紙面の都合上、この続きはまた次回(未来の自分)に譲ってあげようと思う。

ノシ


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