「人を信じる」ことの本質とは?
とある有名人の方が、女性蔑視の発言をしたことで炎上していますね。
今回の問題発言を耳にして、「もうファンはやめた」という人もいることでしょう。
また、こういう事件に限らず、人間関係において「信じていたのに裏切られた」と思うことって、ありますよね。
でも・・・本質論から言うと、以下のようになります。
「ファンだった」という人は、そもそもファンではない。
「信じていたのに…」と言う人は、そもそも信じていないのです。
世の中のあらゆる出来事は、全ての自分のために起こっている――と考えることができます。
上記のような出来事を、より自分らしく生きるためのチャンスにしたい方のために、「人を信じる」ことの本質について書きたいと思います。
「信じていたのに…」と言う人は、そもそも信じていない
それがどういうことなのか、「信じる」という言葉をちょっと哲学してみましょう。
1.「あなたは神の存在を信じますか?」
もしこのように言われたならば、「はい」「いいえ」と答える余地があるでしょう。
しかし、以下の質問はどうでしょうか。
2.「あなたは安倍首相の存在を信じますか?」
・・・おそらく、質問の意味が分からないのではないでしょうか。
安倍首相は、確実に存在しますよね。
つまり「分かっているもの」は、信じる対象にはなりません。
「分からないもの」の場合にのみ、人は「信じる」ことができるのです。
例えば、「人の成功を信じている」時には、その人が成功するかどうかはまだ分かりませんよね。
「人の言葉を信じている」時には、その言葉が真実かどうかは、究極的には分かりません。
でもそこに、真実“味”を感じたり、自分も同じ「考え」で共感できたりするから、信じるという行為が行なえるのです。
「信じていたのに…」という時に何が起こっているのか?
では、「信じていたのに…(裏切られた)」という場面で、一体何が起こっているかを分析してみましょう。
例えば、1回目の浮気をした夫がいたとします。そして、「もう二度としない!」と誓ったことに対して、奥さんが「信じる」とします。
しかし数ヶ月後に、2回目の浮気が発覚……。そうした場合に、奥さんは以下のように言うことでしょう。
「信じていたのに…」と。
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