05.いやな気分よ、さようなら

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人生という運ゲーから自分を取り戻したい

人生はゲームに例えられることが多い。

ネット上で国内、世界の人と気軽にコミュニケーションを取れるようになってから「あれ、おれの人生ハード過ぎない?」と気付くことが増えたのかもしれない。ぼくは大学に行っていないのでわからないが、地方公立高校から首都圏大学に進学した人はスタート地点が違いすぎるとそこで気付くケースもあるみたいだ。

これはまた最近バズっていた記事。生まれた世界から違いそうだから、特に言及する立場ではない。

いろんな情報が溢れてくると、客観的に自分の生まれ育ちや考え方の違いが見えてくるのでだんだんと思考が詰んでくる。本当なら、誰かと比較することは部分的な意味しかなくて、自分は自分であると言い聞かせたとしても、それでも比べることで自分を見失ってしまうことはある。
考え方の傾向というのは厄介で、悪いほうに流れるのは容易なのにいい方向に戻る労力は途轍もないものを要求される。にもかかわらず、生活をする中で舵を取るのはこの考え方というやつである。考え方においては、理より習慣が優先されてしまう。


自分を取り戻したい人たちの歴史

認知行動療法(CBT)といわれる心理療法が1920年ごろから発展を遂げてきた。たとえばマインドフルネス、アクセプタンス&コミットメント・セラピー(Acceptance and commitment therapy : ACT)、弁証法的行動療法(Dialectical Behavior Therapy:DBT)など、対象の症状によってさまざまな技法が生まれ、実践されている。
しかしこれら心理療法が名前と技術として現れたのがつい最近であるだけで、その思想的な源流を辿ればストア派、例の『自省録』が最も古いと言える。これは後世のための云々ではなく、自分で自分を取り戻すための認知療法として行われていたし、現在でも毎日の思考や苦悶したことを書き留めたり、食べたものや寝た時間を記録し続け自分を外側からカウンセリングするなどの手法として行われている。

朝起きるのに気合が必要だった哲人は、自分にこんなふうに言い聞かせていた。

明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくのがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ」。自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をして行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地良いもの」。では、君は心地よい思いをするために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛やミツバチまでがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自分の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。
 しかるに君は人間のつとめがするのが嫌なのか。自然にかなった君の仕事を果たすために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない」。それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしない。
 結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったならば君は自己の(内なる)自然と意志を愛したであろう。他の人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。ところが君ときては、款彫師が彫金を、舞踏家が舞踏を、守銭奴が金を、見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ。上にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗らせ用途する。しかるに君には社会公共に役立つ活動はこれより価値のないものに見え、これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか

認知行動療法のほかに精神分析というたいへんヤヤコシイ療法もあるが、要は互いの理念の違いである(少なくとも立脚時点では)。精神分析は症状を<無-意識>から発現するものとして認識し、セラピーを組み立てて実行する。一方で認知療法とは言葉の通り、その人の見えているモノによって症状が生まれると考えていて、それを変容させることが症状緩和へ繋がるという考え方だ。近年の認知行動療法、精神分析に関しては全く終えていないが、Google先生に聞く限りではどうやら決定的な差異は薄くなっているようである。精神分析から認知行動療法を検討したり、逆検討を行っている論文もあった。

詰んでるとき、ぼくたちに何が起こっているか

「詰み」とは将棋由来の言葉で、あらゆるパターンを経ても自分の負けが決まっているケースのことを指す。これをぼくらが生活の中で使う時は、たいてい詰んでいない。どちらかといえば頭が「煮詰まって」いる状態であって、将棋的な詰みでないことが多い。いやしかし、棋士であっても詰みだと錯覚するケースは多く、アマ棋士の棋譜なんかを見ていても実は詰んでないケースはよくある。これは感想戦のなかで発覚することが多いのであるが、認知行動療法の考え方はこの辺に近い。

実生活の中で詰んでいると感じられることは確かにあり、その副次的な要素として希死念慮、過食・拒食、自傷などがある。ではその詰んでいると感じられるとき、ぼくらはどんな要素を抱えているのだろうか。

①全か無か思考 all-or-nothing thinking
ものごとを白か黒のどちらかで考える思考法。少しでもミスがあれば、完全な失敗と考えてしまう。

②一般化のしすぎ overgeneralization
たった1つの良くない出来事があると、世の中すべてこれだ、と考える。

③心のフィルター mental filter
たった1つの良くない事にこだわって、そればかりくよくよ考え、現実を見る目が暗くなってしまう。ちょうどたった1滴のインクがコップ全体の水を黒くしてしまうように。

④マイナス化思考 disqualifying the positive
なぜか良い出来事を無視してしまうので、日々の生活がすべてマイナスのものになってしまう。

⑤結論の飛躍 junping to conclusions
根拠もないのに悲観的な結論を出してしまう。
 ⒈心の読みすぎ mind reading
  ある人があなたに悪く反応したと早合点してしまう
 ⒉先読みの誤り the fortune teller error
  事態は確実に悪くなる、と決めつける

⑥拡大解釈と過小評価 magnification and minimization
自分の失敗を過大に考え、長所を過小評価する。逆に他人の成功を過大に評価し、他人の欠点を見逃す。双眼鏡のトリックともいう。

⑦感情的決めつけ emotional reasoning
自分の憂鬱な感情は現実をリアルに反映している、と考える。「こう感じるんだから、それは本当のことだ」

⑧すべき思考 should statement
何かやろうとするときに「~すべき」「~すべきでない」と考える。あたかもそうしないと罰でも受けるかのように感じ、罪の意識を持ちやすい。他人にこれを向けると、怒りや葛藤を感じる。

⑨レッテル張り labeling and mislabeling
極端な形の「一般化のしすぎ」

⑩個人化 personalization
何か良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合にも自分のせいにしてしまう。

以上が認知のゆがみと呼ばれる、実際の現場で利用されている分類法である。「うわ~おれこれだわ~」と思い当たる項目がいくつもあるわけだが、認知行動療法が目指しているもの、あるいは自分自身が目指しているものは「不愉快な感情に支配されないハウツー」であるわけだから、そのゴールを見失わないようにしておきたい。有象無象へ自分のコストを払うことなく、愉快でエキサイティングなものに集中するための方法論の一つが分類という手段であって、そこは過程である。


自己評価する

認知行動療法の中で、最も困難なのが自己評価の確立である。まずぼくたちから現れる行動や感情はどういう仕組みなのかを確認しておきたい。

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はっきりと理解しておく必要があるのは、ぼくたちにやってくる感情は考え方によって変わるという点だ。『7つの習慣』でも言われている、刺激と反応のあいだ、主体性を回復させるあの話と一緒だ。そもそも、生活というのはあまりに刺激物が多すぎる。最近の生活でも、脳が溶けるかというような暑い毎日、始発なのに埋まっている座席、美味しくないド○ールのアイスコーヒー(個人の感想です)、定時帰宅ダッシュを決めたのに人身事故で3時間以上の遅延…不愉快の連続だ。しかしその不愉快さを生み出しているのは、他でもない自分の考え方が大部分であるということだ。そしてまた、それぞれの出来事に干渉することはほとんど不可能である。ぼくらは『天気の子』のように祈って晴れを作ることはできないし、『電車男』のように酔っ払いに絡まれている女性を助けたこともない。生活というのは、まったく同じではないが似たような日々の連続である。
ぼくらの思考習慣を変えることが、認知のゆがみから逃れられそうなのは少しわかった。ではそのための具体的方法は?

こみあげてくる感情を抑圧するのは至難であるし、リスクもある。まずはあふれ出るままにしてOKだ。ただそれを眺めるだけにはせず、ネガティブな感情を書き留めておくことが重要である。きちんと、書き留めること。そして、その書き留めた不安・不幸でいっぱいの感情が先ほどの分類法でいえばどれに(複数可)当てはまるのかをみていく。そして、自己批判的な感情を、自己擁護的な発想へ転換するとしたらどういうものがあるかを書き留める。この連続だ。
※認知行動療法の手法は行動分析学の内容と重ねることができる。ABC分析などは臨床の現場で利用されているようだから、慣れてきたら様々な手法を試してもいいかもしれない。


ぼくの場合
【自己批判】
いま午前4時30分なのに記事が全然終わっていない。参照する箇所も多いし、ネットに転がってる記事もまともなのないし、今日予定あるのに寝てないのアタマ悪い。こんな生活続けていたら仕事に絶対悪影響出るし、朝起きれなくなる。別に誰かが見るものでもないのに、なんでおれはこんなに懸命にやってるんだ?

【分類】
一般化のしすぎ
結論の飛躍

【自己擁護】
今日の予定を顧みて記事を書くなんて超えらい。予定の後にやろうとしたらきっと挫折してたであろうにも関わらず、しっかり事前対策を練ってとっても偉い。今の職場は定時帰宅絶対できるから睡眠時間に問題はない、もし眠ければ早めに出て電車で仮眠でも全然OK。この記事も、いつか見直した自分のためにやっているし、もしかすると同じように惨めな思いで悩まされている人たちがこの本を買うきっかけになってくれるかもしれない。

最初から完璧にできるわけではない。自分の負の感情は正しいと感じるし、それを道理とできる情報も集められてしまう。決して即効性のある手法とはいえない、それならさっさと寝て朝日の光を浴びたほうが即効性はあるし、自伝を読んで俺最強を即時的に味わう方法もある。けれど、わざわざこの手法にこだわるのは、ぼくらの生活はぼくらのものであるという発想から来ている。優れた人たちの栄光を見たとして、ぼくらは同じ生活を味わえるわけではない。生活の美味しいところを味わうためには、避けられる不は避けておいたほうがいい。それは誰かの手を借りる方法もあるが、なんだかんだ自分でなんとかせざるを得ないことばかりだ。だからぼくたちはハンドメイドで自分たちの不快を減らしていく必要がある。

不安や絶望という悪魔に魂を売る前に、まず悪魔を書き留めてやろう。

※コンパクト版のほうが持ち運びや価格面でGOOD


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