劇作家/演出家への手紙 演劇≒権力試論 『人形の家』を読みなおせ

打ちひしがれている。
正直、まだこんなことをしているのか、と嘆息するしかない。
一晩眠れない時間を過ごした。うんざりしているのも事実だ。だけど、黙っているわけにはいかないと思い直し、こうして思いを綴ることにした。

https://note.com/saika_0702/n/ndccf29034690

大内彩加さんのこのnoteを目にしたのは2022年12月15日19時30分前後のことだ。Twitterでリツイートされてきたことで目に入った。一瞬、目がくらむような衝撃を受け、そののち「ああ、またか」という想いが頭をよぎった。

続いて、宮地洸成さんの告発も読んだ。

大内さんの告発が裏付けられたのだと理解した。

ここ数年だけでも私と同世代(上の年代もいました)、あるいは少し若い年代の劇作家・演出家を兼ねる劇団主宰が、性暴力やパワーハラスメントで告発されることが何度となく繰り返されている。もう、いい加減学ばなくてはならないはずだ。

灰皿を投げる、机を蹴飛ばす、人格を否定し絶対的権力によって従わせる…それは演出家が自分のイメージを適格に伝えられないこと、俳優がそれを受けとれないこと、そこに生じる誤解を埋める方法を持っていなかったこと…それは、対話による解決の方法を持っていなかった時代の稽古場の風景だ。

私自身、1990年代にそういうやり方こそが演出家なのだと勘違いして、大声を出したり、威嚇的な言動をして俳優を心理的に追い込んだりしていた。まったく弁解の余地もない。

私が再び演劇の世界に戻って来た時、もうそんな風景はないものだと思っていた。#MeToo運動以降は権威や権力に関する抑制的な方法を皆で模索しているのを、かつての自分への反省と自戒を込めて、学び直そうと決めて戻ってきたのだ。

しかし、なかなか難しい。
そうでない因習を引きずったままの人もまだまだいるし、自分自身の役割を権威と取り違えている人もやはりいる。
また、私自身意図せずとも「中年男性」であるというだけで、ある種の権威性を纏ってしまうという事実にも直面した。

公演を主催し、戯曲を書き、演出する、という3つを一人の人物が担えば、そこに権威や権力がおのずと発生する。ましてや、作品が評価されたり名声を得てしまえば、そこにプライドも付加され、それはより強化されてしまう。そして、作品を生み出すという心象が自己愛によって支えられているタイプの人物であれば、「思うように認められない」という想いがより権威的な振る舞いを誘引するだろう。これは日本の演劇のエコシステムに由来する問題でもあると考えるが、そうであってもそれを逸脱せずにやっている団体の方が多いのだと指摘されればその通りだと認めるしかない。

この件に関する谷賢一さんの反論を読んで、公演初日前日というタイミングでの告発に、より保護的な反応をしてしまったのではないかと考えながらも、自身が纏ってしまっている権威性についての無自覚を感じないわけにはいかなかった。

この件は司法の場で事実が明らかにされ、裁定されることになる。司法は国家が取り仕切る「対話」の場だと私は考える。法のみならず道徳や慣習など広義の社会規範によって事実関係が裁定されることになる。異なる共同体が隣り合わせに生活するアメリカでは、この「対話」が日本よりも日常的に用いられる。

今回の件だけでなく、その権威性の濫用を告発された劇作家や演出家は、逃げずに「対話」を試みるべきだ。同じ事象に対する価値観の違いを正面から受け止めるしかないと私は考える。こんなことを言っている私だって、気づかないうちに自分のとった行動が権威性による暴力だと指摘されることだってあり得るのだ。

平田オリザさんが、やはりここ数年で何度目かの声明を発した。

私もオリザさんに学んだ一人として、責任を自覚し、行動をより戒めていくしかないと考えている。

昨年、劇作家協会のオンラインリーディング企画で私の作品を取り上げてもらったのだが、そのひとつ前の企画が谷さんの戯曲を読む企画で、その際参加者との議論の中で威嚇するような発言があり、問題になっていた。
そうした経緯もあってか、私の企画の際は委員も事務局もいろんな意味でセンシティブになっていたのだろう、企画が終了したときに「ちゃんと意見を聞いてくれる人でよかった」と声をかけられ、なるほど業界は全体としてちゃんとリスペクトカルチャーを普及させようとしているんだなとわかり、私にとってはそれがとても大きな学びにもなったし、演劇を続けていく上での責任の在り方も考える契機にもなった。

昨夜、何人かの方からこの件に関して意見をいただいて、様々な立場から真剣に考えてくださっていることを知り、とても感謝した。この後、いろいろな建設的提言も出てくると思うし、私も私なりに考えて行動していこうと思っている。そして、劇作家協会でもこうした取り組みを通じてカルチャーの変革を試みている。

今変わらないで、いつ変わるのだ?

思えば、近代演劇の始まりはイプセンの『人形の家』だとされる。言ってみればあれは、他者へのリスペクトの話だ。もしかしたら、わたし達の社会はイプセンの問いかけをまだ咀嚼できずにいたのかもしれない。演劇人においてさえ、そうだった。立ち上がり、声を上げたノラたちに敬意を。そして、ヘルメル達よ、自戒を込めて、変わっていきましょう。人は何回だってやり直せるんです。

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