読書感想:クロイツェル・ソナタ 悪魔/トルストイ

 久しぶりの投稿です。本当は週1ペースで投稿するつもりだったのですが、なかなか難しいですね…。今後もあまりプレッシャーをかけすぎず、更新したいと思います。

 以前の記事でも書きましたが、たいてい私が読書するきっかけというのは、たいていミーハー的なものが多く、その作品の内容自体にひかれているわけでは全くないことが多いです。
それでも、いざ読んでみると、かなり深い内容が隠されているものです。
 つい最近、そんな一冊に出会いましたので、ご紹介させていただきます。今回はやや、社会問題系というか、スカッとする内容ではありませんのでご容赦ください。
〇タイトル:クロイツェル・ソナタ 悪魔/トルストイ

〇読み始めから読了までの期間:2020.6.29~2020.7.6
〇読み始めたきっかけ
 この本は近年亡くなった、私の祖母の自宅から持ち出したものです。元々は、母か叔母の蔵書だったのだと思います。きっかけは毎度のことながら「トルストイ読んだ」と、とりあえず言いたかった厨二心です。ロシア文学は、かつて、ドストエフスキーの「罪と罰」をほんのさわりだけ読んで、挫折したことがあります(これも、いずれ再挑戦したいと思いますが、何せ文庫でも上下巻あるので…)。そこで今回は、その反省を踏まえ、割と厚みが薄目な本作を何とか読み切ろうと、手に取った次第です。

〇読み終わった感想・意見
 何の気なしに読み始めたのですが、読み終わってみると、いろいろと考えさせられる内容でした。

 本書は「クロイツェル・ソナタ」と「悪魔」の、中編2作品が収録されていますが、テーマは共通していて「性に対するストイックさ」です。
 昨今、芸能人の不倫や、セクハラなどは厳しく糾弾されるようになってきてはいますが、それでも、心の中で「不倫はだめだけど、エロいこと考えるのは、健全な男子の証拠だろ」「昔は遊び人だったとしても、結婚後きちんとしていれば、それでいいじゃん」など、一時的にせよ、奔放な性欲を肯定的にとらえている人は、実はたくさんいるのでは…と思います。正直に申し上げますと、私もかつて同意していた(そして今も完全には否定しきれない)部分です。
 
 しかしながら、この2作品は、そういった人たちに対する、著者トルストイの「んなこたぁねえぞ」という、痛烈なカウンターパンチだと、私は感じました。

 「クロイツェル・ソナタ」は、帝政ロシア末期のシベリア鉄道内での、とある紳士・ポズドヌイチェフの独白で、ひたすら物語は進みます。実は彼は、かつて嫉妬から妻を殺害したのですが、そこに至るまでの経緯を、ありありと告白し続ける、という内容です。
 「悪魔」は、実際にロシアで起こった事件を題材にした小説だそうで、こちらも、とある青年貴族エフゲーニィが、自身の性欲を抑えられなくなり、村の人妻と関係を持ってしまったことが原因で、最終的に身を滅ぼしてしまうという内容です。
 以下「クロイツェル・ソナタ」の感想を中心に載せておきます。

 「クロイツェル・ソナタ」が物語として最も盛り上がるのは、終盤、タイトルにもなっているベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」が登場してからで、ここから一気に核心に迫っていきます。
 しかし、私が印象に残ったのは、物語の前半部分です。おそらくトルストイは、ポズドヌイチェフが破滅に至ったきっかけは、妻のヒステリーや浮気(と少なくともポズドヌイチェフは思っている)相手・トルハチェフスキーの存在よりも、そこに至るまでにポズドヌイチェフが抱いた女性に対する価値観・思考であると、主張したいのだと思います。
 物語序盤、ポズドヌイチェフは、自身が青年期に女性に対するある「過ち」を犯したことを告白し、そのことを以下のように嘆きます。
 

「そう、女性に対するごく自然な、気取らぬ関係は、永久に滅びてしまったのです。あれ以来、女性に対する清い関係は、わたしにはなくなりましたし、ありえなくなったのです。わたしは道楽者とよばれる人間になりさがったんですよ。」
「道楽者とて抑制したり、自己とたたかったりすることはできます。しかし、女性に対する、兄弟のような気取らぬ、すっきりとした清純な関係は、もはや決して生まれないのです。若い女を見つめたり、眺めたりする態度で、すぐに道楽者とわかってしまうのです。」


 「過ち」の具体的な内容は記しませんが、少なくとも独身時代の話であり、不貞行為ではありません(ここまで書けば、どういうことかある程度はわかってしまうかもしれませんけど…)。しかし、一度でも「道楽者」になってしまえば、女性を性的な対象としてしか見ることができなくなってしまう、そしてそれは取り返しのつかないことなのだという、トルストイの強い警告を感じました。
 
 この2つの物語の根底にあるトルストイの主張は「たとえ不貞行為でなかろうと、一度でも女性を性欲の対象としてしまったら、もう取り返しがつかない」という、かなりストイックなものであり、倫理観が厳しくなった現代ですら、賛否両論となると思います。実際、現代日本でも、トルストイのいう「過ち」に近い内容が、職業として法的に認められていますし、その職に誇りをもって務めている方もいらっしゃると思います。そういう方にとって自身の職業を「過ち」といわれるのは、かなり心外なことと思います(不快に思われた方は申し訳ありません)。
 私個人の意見としては、そのような職業もいろいろな意味で、必要だと思います。しかしそれにかこつけて、女性を性的な目で見るのが日常化してしまうのは、学生のうち、男友達の中だけならともかく、少なくとも社会人になってからは自制を心がけるべきだと思います。そのような目線をいつまでも持っていると、何気ない一言にもそういう思想が発現し(いわゆる「セクハラ」)、女性を傷つけることになりかねません。Twitterなどでも、糾弾されている人がいますが、本人に悪気がなくても「若い女を見つめたり、眺めたりする態度で、すぐに道楽者とわかってしま」っているのだと思います。
 セクハラに、より一層の厳しい目線を向けられるようになった令和の時代にこそ、このトルストイのストイックさが再評価されるのかもしれません。

 なんだか説教臭い感じの文章になってしまいましたが、いろいろ考えされられ、思いがこみ上げた一冊だったからこそということで、ご容赦ください。

※補足:セクハラについては、男性女性LGBT関係ない、というご意見もあると思います。なので、本来ならば「パートナーでもない相手を(時と場合によってはパートナーであっても)日常的に性的な目で見るのは自制すべき」と書くべきだったかもしれません。ただ、本記事はあくまで「読書感想」であり、著者であるトルストイの意思を尊重して、男性から女性への目線を主軸に書きました。

また、上記はあくまで「日常的に」という話なので、閉鎖空間でTPOを弁えた場合や、創作物での性描写を否定するつもりはありません(まぁ、ここで露骨な話をするつもりもないですけど…)

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