騒がしい輪郭 トークゲスト 米村優人(彫刻家)

 この度、京都下鴨で私がオーナーを務めるオルタナティブスペースyugeにて、個展「騒がしい輪郭」を開催した。
 会期は12/8(日)から12/15(日)となっていて、その中で四回にわたってそれぞれ違うゲストを呼んで私と共にトークイベントをさせてもらうことになっている。
 それぞれのアーカイブをnoteに残しているので、トークイベントに参加できなかった方や、参加後に振り返りたい人は見てやってください。

その他のトークイベントの記事はこちら↓
 Vol.1 ゲスト 松原元(建築家)
 Vol.3 ゲスト 九月(芸人)

 12/11(水) 17:00より
  トークゲスト:米村 優人(彫刻家)
    ※ コ…コニシムツキ 米…米村優人

01.彫刻と呼ぶか呼ばないか

コ:今回来て頂いたのは彫刻家の米村君です。
  彼は現在作家活動をしながら造形業や大学の技官などで仕事をしている方です。僕と同期で普段ヨネと呼んでるので今日もそうさせていただきます。

米:よろしくお願いします。
  今回肩書きを「彫刻家」と書いてもらったんですけど、実は僕は実感としては自分を彫刻家とはあまり思っていなくて。

コ:そうだったのね。

米:そう。強いていうなら「現代美術家」としてやっている感じで。
  もちろん彫刻家に憧れはあるけど、自分は彫刻家か?と言われたらそうではないなと。

コ:結構ヨネの作品は、石や粘土、FRP(ガラス繊維樹脂)を使った巨大なオブジェのようなものが多くて、ぱっと見「彫刻だな」と思わせられるビジュアルが一番手前に出てくるところはあるよね。

米:言ってしまえば素材選びが石や粘土とか、いわゆる彫刻に連想されるものを使っているだけで、それによって作られた造形物なら否応でも彫刻になりかねないと思いながら作っているかも。

コ:なるほど。
  僕の作品は今回出しているもののようにビジュアル的にはいわゆる彫刻のようなものではないのに、彫刻とわざわざ名付けているところはあって、逆に彫刻的なビジュアルの作品を作っているヨネは彫刻とは言い切らない作品作りをしている。この対照的な関係が面白いかなと思って今回呼ばせてもらったんだけど、ヨネの制作の中にある”彫刻観“みたいなのがどんなものなのかを気になるな。

米:すごく単純な話、彫刻を作っていると言うか言わないかってって結構大きいと思っていて、例えば木を彫っている人が出来上がったものを「彫刻です」と言ってしまえばそれは彫刻になりえるし、逆に言えば木を彫ったからといってそれが彫刻になるとは決まったわけではない。

コ:たしかに同じ木を彫るって工程で制作されていても、木のスプーンを見て彫刻だとはわざわざ言わないし、彫刻だとも思わないもんね。

米:そう。だからコニシの今回の「文字や言葉を使った彫刻」っていうのはそういうことだよね。素材を何にしようが彫刻にすることもできるし、同時に彫刻かどうかは素材には左右されないんじゃないかと思うな。

コ:僕は今回言葉を、もっというなら他人の会話を彫刻の素材として選んだわけだけど、ヨネは何を考えて素材を選びをしているの?

米:結構そこは僕らの世代は悩ましい問題で、上の世代に村上隆(以下作家名敬称略)やヤノベケンジのネオポップの流れあたりって「絵画」「彫刻」って言葉を少し避けていたような気がしていて、極端な話「そういうのダサいぜ、こういうやり方があるぜ」っていうような

コ:確かにあのあたりはいわゆる絵画・彫刻っていうものからの脱却の意識が強かったとは感じるところがあるね。

米:その次に名和晃平、金氏徹平あたりのマテリアルへの意識が強い世代が僕らの少し上にいて、どんどん「絵画」「彫刻」という概念に強くこだわらないというか、縛られることが無くなって来てる気がする。

コ:いや、素材選びについての質問をしているんですよ(笑)

米:ああ、そうやった(笑)

02.彫刻家にはなれない

コ:ヨネは自分の作品を彫刻でなくてもいいと言いつつ、彫刻へのこだわりがないわけではないよね。

米:自分が「彫刻家にはなれない」と確信した瞬間があったのもでかい気がするな。東京藝大を出た彫刻家の方に塑像を指導してもらったりもしていた時期がちょっとだけあったんだけど、「彫刻家になりたいんです」って言ってたら、尊敬していたその人に「ヨネは彫刻家にはなれないよ」と言われたことがあって。

コ:すごいダイレクトにいうな(笑)
  でもそれを言われて「確かにそうだな」と思う自分も少しいたっていうことだよね、きっと。

米:そう。自分でも少し思っていたし、果たして自分が本当に彫刻家というものになりたかったかどうかもわからなかった。
  そこから、昔からおもちゃやヒーローのソフビフィギュアが好きだったことを思い出して、フィギュアのような作品をつくるようになったんだけど、ワンフェスに出してもそれはそれで鳴かず飛ばずで。

コ:彫刻とフィギュアの間で、どちらにも行ききれない自分がいたと。

米:そこで行き着いたやり方が、フィギュアとかにあったようなヒーローやロボットのようなモチーフを彫刻のようなプロセスで制作するという今の作り方なんだよね。

コ:ヨネとしては彫刻として作品を作ったというよりは、あくまで手法として彫刻を選択しただけで、作品全体の一要素でしかないのかもしれないね。「彫刻」っていうものは。

米:そう、気付いたら作ったものをみんなが「彫刻」と呼んでいたっていう感覚。
  逆にコニシは今回の展示とかは特に「彫刻」というものに拘っているように感じたんだけど、それはなんで?

コ:そうだね。僕もヨネと同じように彫刻家への憧れっていうのはあるのは大きいかもしれない。
  北海道で木工の勉強をしていた時期、砂沢ビッキや安田侃の作品が大好きになって、それから「彫刻家になりたい」と強く思いながら木彫をずっと作っていたんだけど、やっぱり自分がつくるものを「落書きと変わらないな」と思ってしまう状態が続いてしまって。(過去作画像参考)

画像2

米:紙に書いてる落書きを、木に向かってノミでやっているだけだと。

コ:そう。それこそさっきヨネが言っていたような、自分の世代で、生い立ちで、木彫に拘る意味はほとんどないんだなって気づいたのね。
  それなら他にも自分が好きで仕方ない文学、映画、舞台、音楽、落語、そう言ったいろいろな要素を生かせる楽しいやり方を、彫刻っていう枠に収められないかと思うようになって、今の作品になっていったっていう流れなんだよ。
  互いに好きなものと彫刻を掛け合わせて、なんとか自分にしか作れない彫刻を目指しているのかもしれないね。

03.彫刻の認識について

米:ずっと圧倒的なものが作りたいっていう欲はあるんだよね。

コ:圧倒的なもの(笑)
  でも確かにヨネの作品はマッチョな思考が垣間見えるきはするね。(画像参考)

画像1

米:マッシブな作品を目指しているわけではないんだけど、自分の中にある「彫刻」って、何か圧倒的な存在感があって、街にポンとあっても知らずに人が集まってくる。そんなイメージがあるんだよ。

コ:存在感がキーなのね。

米:そう考えたときに、モチーフにしているヒーローやロボットも圧倒的で存在感の塊みたいなもので、自分の中での彫刻とヒーローが重なったというか、ヒーローをつくることが彫刻になるのかなと。
  コニシの中での彫刻っていうのはどんなものなの。

コ:僕の中では彫刻はモノというよりも行為として捉えているかな。
  今回の展示のステートメントにも書かせてもらったように、何かしらの概念から本質の輪郭を捕まえようとする行為こそが彫刻なんじゃないかっていう、提案に近い感覚かもしれない。

米:鑑賞者には「彫刻だな」と思って欲しかったりするの?

コ:いや、それはどちらでもいいのかな。それこそ「これも言ってしまえば彫刻じゃないですか」というスタンスだから。納得してくれたら少し嬉しいかなってくらいだな。

米:なるほどな。

コ:ヨネは逆に「彫刻だな」って思って欲しい?

米:いや、俺の作品はみんな勝手に「彫刻だ」っていうからなぁ

コ:まあ確かにそうか(笑)

04.彫刻の台座について

コ:彫刻を展示するにあたって、ヨネはすごく彫刻本体とその台座との関係を気にしているなと思うんだけども。

米:そうだね。台座によって彫刻が成立しているんじゃないかと思ってる。
  やっぱり彫刻があって、台座が作られるというか、台は彫刻ありきの空間。その感覚は例えインスタレーションのような展示方法だったりしても同じで。

コ:その空間を「彫刻のための台座」として仕上げるっていう感覚なのかな。

米:そう。やっぱりその作業をするかどうかで全然違うんだよね。
  台座をちゃんと作るから彫刻がちゃんと彫刻になるというか。

コ:確かにその台座の認識ってわりと理解できて、例えば逆に野外彫刻とかになるとフィールドワークとかが重要視される。それはその展示場所をキチンと台座として成立させられるような彫刻を作るっていう逆算をしているだけだよね。
  つまり、台座にあたるものを鑑賞者に台座だと認識さえさせられたら、その台座の上にあるモノはなんでも彫刻になり得るのかもしれないね。

米:そうそう。

コ:美術館とかギャラリーにポンと落とし物があっても作品に見えちゃうことがあるっていう話も、きっと美術館っていう空間が台座になっているのかもしれないし。

米:ちょっとピンとこなくなってきたけどな。

コ:むしろ場所に限らず、誰がやったことかというのも台座なのかもしれないね。
  僕らが天井にYESと描こうが、ギャラリーに林檎を置こうが関係なくて、「オノヨーコ」っていう台座の上に「林檎を置いた」という行為が乗っていたっていうことで成立していたのかもしれないなって。

米:あー、もう、ちょっとわからへん(笑)

コ:飛躍しすぎました…
  それにしてもその自分の立ち位置とか、この話でいう「台座」の強度を上げていくっていうことも大事なのかもしれないね。自分を理解して、考えて、何をするのかっていう土俵をちゃんと自分で作るというか。

米:うん、頑張ろ

コ:もう疲れてますね。そろそろ締めましょう(笑)

終了

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