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生きる上で考えていること

「中庸」というのが私の好きな考え方で、生徒にも伝えることがある。

ちゅう‐よう【中庸】
[1] 〘名〙
① (形動) どちらにも片寄らないで常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。中正。中道。
※日本書紀兼倶抄(1481)「内典も中道実相ぞ。外典にも中庸を本にするぞ」
※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)後「人間万事中庸(チウヨウ)の、ほどよくするはかたくもあるかな」 〔礼記‐中庸〕
② (形動) ふつうであること。尋常であること。また、そのさまや人。凡庸。常人。〔色葉字類抄(1177‐81)〕 〔荀子‐王制〕
③ アリストテレスの徳論の中心概念。理性によって欲望と行動を統制し、過大と過小との両極端の正しい中間に身をおくこと。たとえば、勇気は、理性によって明らかにされた具体的な事情を考えた上で、卑怯と粗暴との中間であるとすること。

つまりは偏らず真ん中に心を置くことであると理解している。

何かを考える時には「偏り」が「偏見」となり、「誤解」や「無意識の攻撃」を生む。中庸であることは自分の偏りを自覚し、それをコントロールするということだと思う。

自分の偏りが自覚できれば、「敢えて偏る」こともできる。人の考えや行動を理解したければ最大限好意的に偏れば良い。逆もできる。中庸が基本的な姿勢として身に付けば自らを通して外のことが理解できる…可能性もある。ここで「理解できる」と断言するのは「偏り」になる。

思考の押し付けは教育として嫌われるが、「中庸」を勧めるのはどう解釈されるだろうか。「こだわりを捨てる、欲を捨てる、信念を捨てる」どれも嫌われそう。でもそうやって一つ一つ捨てていく中ではっきりと見えることこそが「自分の本当に大切なこと」であって、その偏りを自覚していれば別にいいんだと思う。むしろ、その偏りを自覚することが自分という人間を知ることなんじゃないかなと思っている。

昔の漫画で「シャーマンキング」という私の好きな作品がある。読んでない人は読んで見て!アマゾンプライムでアニメも見られる!この主人公はまさに中庸であって、後半で中心となる思想は「やったらやりかえされる」といったかなり現実的なものだったりもして、かなり影響を受けた。

さて、こうやって自分の考えを発信することが中庸なのかどうかはともかく、なるべく考えたことは共有すると決めたからには「大切なこと」として押し切らせていただく。いわば「心の断捨離」と言える発想。みなさんも少し考えてみるといい…可能性がある。

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