金原ひとみ『アタラクシア』(集英社)
金原ひとみの新刊『アタラクシア』を読む。そもそも、アタラクシアって何さ、と本を読み終わった後で調べる。Wikipediaによると、「心の平静不動なる状態のこと、乱されない心の状態」だそうだ。なるほどなるほど、これは、人間関係の中に出てくる人たちが1章ずつ一人称で語る、見た目短編連作のような(窪美澄的?)小説だが、つまりは最初の章の語り手だった由依が主人公の小説で、小説中でサイコパス的、と言われる、由依の不思議なメンタリティが、周囲の人間をかき乱す、その様子をそれぞれの登場人物が自分の視点から表現していくのである。
由依には愛着がない。長い付き合いの人とも、その過去の蓄積は由依にとって何の意味も価値もない。由依にとって重要なのは今という刹那に自分が何を欲しそれを受け入れてもらえるかだけなのである。
モデルとして身を立てたくて、はたちになるより前に単身渡仏して、モデルの仕事をするが、大成せず、帰国。それだけの決断力があり、帰国後はフランス語の能力を使ってファッション誌のライター的な仕事などをしているが、本当は何がしたいのか(モデルの道を諦めた時点でやりたいことはないということなのか)、どうやって暮らしているのか(夫に養われているという状況が希薄)、家族との相克、一方で親しくしている人たちはそれぞれに自分の問題を抱え、どうみても由依よりハードな人生を送っている感じなのに、その状況を由依がを無意識に逆撫でている。
由依以外の登場人物の気持ちは、手に取るようにわかりやすい。不倫とかストーカー的愛情とか、芸事が最優先でそれがうまくいかなかったときに身近な人に波及する暴力とか、デキ婚した自分への公開が周囲の人間への罵倒に変わる状態とか、パパ活、援助交際、由依以外の人が思っていることは小説的にわかりやすく、読んでいるこちらも(共感はしないにせよ)腑に落ちる。そして、そのセンターに、わかることの出来ないアタラクシアがある。社会的な名声を勝ち得ていても、誰も幸福そうには見えず、誰にも幸福な将来が待っているように見えない。でもそういった人たちにかき乱されることのないアタラクシアの由依が幸せかというと、そうも見えない。どの人にも愛されるべき点があり、愛してあげたいと思うが、実際にその人に寄り添うことは出来なさそうな人ばかり。そう思いながら読んでいると、自分が実生活で愛情とか愛着だと思っていることはそれを傾けられた相手にとっては何なのか、と不安になってくる。
作者にとって描くべきは、愛情の息苦しさなのか。
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