5章-(3) パパ来訪
6月初めの日曜日、思いがけない客があじさい寮の玄関に立っていた。
香織が週番に呼び出されて、階段を下りながら、叫び声を上げた。
「パパ!」
3ヶ月目だった。パパは笑顔いっぱいで香織を抱きとめた。ラフなベージュ色のジャケットを着て、大きな紙ぶくろを下げている。
「羽田空港で1日のオフになったんだ。香織の顔が見たくなってね」
低いパパの声が廊下に響き渡った。
「これはおみやげ。表に出ようか」
香織はうなずいて、紙袋は週番室に預かってもらい、靴を取りに昇降口へ走った。応接室へ入って、誰かに立ち会ってもらうより、ネムノキの森でパパとふたりきりで話したかった。
「行きましょ、パパ」
香織はパパの腕にぶら下がって、森の方へ引っ張っていった。パパの匂い、タバコとウイスキーバーボンの匂いに包まれて、香織は笑いが止められな かった。
「もう肩車はムリだなあ、残念」
フフフ。まだ言ってるの、パパ。香織は肩車が大好きで、小学校の4年生くらいまでは、パパの肩によじ登ったものだ。
「すわりましょ、パパ」
大きなネムノキの下のグリーンのベンチに2人は座った。
「土産は思いつかなくてね。さっきのはケーキだけだ。あとで靴でも買ってあげるよ」
「ケーキは嬉しい。かえで班の人たちが喜ぶわ。お菓子や果物が届くと、同じ班の人皆におすそ分けするの。私はもらってばかりで、まだ配ってあげたことがなくて・・」
「それはママに言うべきだよ。そうか、付き合いがあるんだね、寮にいれば。そうだ、香織のルームメイトの人もいっしょに、お昼をご馳走してあげよう」
「ありがと、パパ。直子はママより何倍もお世話になっているの。数学は 教えてくれるし、会話の暗唱文はペアになってくれるし、英単語や漢字を 毎日30個ずつ、問題を出してくれてるの」
「それじゃ、まるでつききりの家庭教師じゃないか。香織といっしょに、 靴をその人にもあげよう・・」
直子との勉強は始まってまだちょっとだが、続ければきっと力がつきそうな予感がしていた。
「そうだ、香織にラジオも買ってあげよう。イヤホンを使えば、へやでも
どこでも使えるよ。僕は英会話と英語は、あれが力になったと思ってる。 教育番組だと、数学でも社会科でも何でもやってるしね」
香織はますますうれしくなって、パパの腕にもたれて、夢心地になった。
パパはネムノキのたっぷり広がった枝振りを見上げ、重なり合った緑の葉の向こうに、明るい陽射しを浴びているあじさい寮を見やった。
「香織はいいところに入れたね。しあわせかい?」
「さいこうよ!」
と言ったとたん、野田圭子に言われた〈香織には試練〉の言葉が、ふっと 浮かんだ。
「それはよかった。ママの話じゃ、たいへんじゃないかい、ついて行くのが・・」
「それは・・」
パパも香織も歯切れが悪くなった。
「まあいいさ、やれるところまでやってれば・・」
「そうよね、なるようになるもの」
そう口にすると、先日の野田圭子の話を思いだした。今度は私が連絡して みるわ。
「で、英会話に通ってるんだって? ラジオも使えば役立つと思うよ」
え? パパはポールのことも知ってるの、ママが話したのね、おしゃべり!
「進歩はしてないけど、初めよりちょっと気がらくになってる。ラジオも 聞くわ」
あのタッドポールの件以来、姉との英カードの言葉が、ふっと浮かんでくる不思議を何度も味わっている。
香織は結城君の家で毎週木曜の夕食をよばれていることも、パパに話した。結城君のママは、世話好きの飾らないおばさんで、料理作りが趣味みたい、と香織は言った。
「そうか、香織はいろいろな人に、お世話になってるんだね」
パパは腕時計をちらっと見た。
「11時か。どうだろう、ポールと結城君の2人も、お礼にお昼をご馳走 してあげたいが・・」
香織はいっしゅんためらったが、すぐにうなずいた。陣中見舞いのあの豪華な夜食がよみがえった。パパにお返ししてもらえたら、少しは負い目が軽くなる。
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