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エッセイ:どっきり体験集(1)~(10) 5.ちこ先生とううごっちゃ

 私の父は83歳で亡くなるまで、語尾に「~ちこ」をつける大分なまりを使い通した。大分県耶馬渓の最奥出身で、10代後半から村を離れ、戦前戦中の朝鮮を教員として転々とし、東京、岡山と合わせて70年近くを過ごしたが、土地の言葉にはなじまないままだった。

 私は幼い時から父の〈おくに言葉〉が面白くてならず、聞きほれていた。ことに忘れられないのは、「どげじょん、こげじょん、ううごっちゃ」という、呪文のような言葉だった。これを聞くたび、なんて面白いと、私はわくわくしたものだが、当人は血相変えてあわてふためいていて、切羽詰った表情をしているのだった。

 例えば、勤め先の高校から帰って来て、自転車を土間に入れながら、この言葉を大きな声で発する。荷台に積んでおいたカバンを、落としてしまった。あっちこっち探したが、見つからない。カバンの中には、生徒たちの答案用紙が入ってるのに、とおろおろしている。

 しっかり者の母が、帰り道のどこかの警察署に届けましたか、と念を押すと、「そうじゃったちこ」 と、父は大急ぎで回れ右していた。結果、無事カバンは派出所に届いていて、事なきを得たのだったが・・。

 もっとひどい例もあった。父はネコ好きで、我が家にはいつもネコがいたが、その頃飼っていたネコはネズミを取らず、ネズミの害に困った父は〈猫いらず〉を置くようになっていた。

 正月のある日、母と姉が留守で、父が私と妹ふたりに、キナコをまぶして〈安倍川もち〉を作ってくれた。4人でたっぷり食べて、父は残りのキナコを戸棚にしまおうとして、そっくりのキナコ入りどんぶりを見つけ、なめてみると、そっちの方が断然おいしい。

「しもうたちこ! ううごっちゃ! ありゃ猫いらずじゃったちこ!」と父は叫び、それからが大騒ぎになった。4人で生卵を飲んだり、水をがぶ飲みしたり、逆立ちもして吐き出そうとしたが、もちは出てこない。自転車2台にふたり乗りして走りに走り、村医者へ駆けつけたが、正月で留守だった!

 騒ぎに気づいた、父の塾の教え子たちが、母を迎えに走ってくれている間、私たち4人は、居間に寝転がって、毒が回って死ぬのを待っていた。

この時も冷静沈着な母の言葉で、救われたのだった。「古い方のキナコを食べただけですが・・。どんぶりに入ってた猫いらずは、私がお皿に分けて、とっくに天井裏へ入れておきました!」

 結局、父の早とちりのおっちょこちょいが、ばれただけの話に終わって、やれやれだった。

 こんな失敗をいくつか見せられるうち、私も父の呪文の意味がつかめるようになった。父はこう言っているのだ。「どうしよう、どうしよう、おおごとだ(一大事だ・たいへんだ)!」と。「おおごとだ」がなまって「ううごとだ」となってるだけなのだ。ちょうど岡山弁の「きょうてえ」は京言葉の「けうとし」のなまりらしいのと同じように。

 私が高1の春、帯江村を出て、倉敷の町へ引っ越したが、そこは父の職場の倉敷工業高校に、歩いても行ける近さだった。それでその秋、初めて男子校の運動会をのぞいてみることにした。

 憧れのS君を初めとして、中学で同級だった男子が数人いるはずだから、見つからないように、初めは金網の外から、のぞき見していた。男子校とはこういうものかと、目を見張るほど大掛かりなやぐらが、運動場のまわりに、いくつも立ち並んでいた。

 そのうちに、目の前のやぐらから「ちこ先生」という言葉が何度か聞こえてきた。あれ、父のことかな? と私は気を引かれて、こっそり近くの入り口から場内に入り込み、近づいてみた。

 すると高いがっちりしたやぐらの上の男子たちが、激しく声援を送っている。やぐらの隅に座っている男子の足元から、大きな板の人形が、柱沿いにぶらさがっていた。わあっと歓声が上がると、その人形の眉と口と両腕のひもが、いっせいに引っぱられ、大ニコニコの表情になった!

 わっ、父だ! とすぐにわかった。めがねまでちゃんと描いてある。座っている男子たちが、手作業であやつっていた。父が担任しているクラスのやぐらに違いなかった。

 今度は勝負に負けたらしく、がっくりの声がやぐらから沸きあがると、人形の眉と口と両腕が、またいっせいにカタッと下がった。まさによく笑い、よくしょげる父の姿だった。

 なんとうまく作ってるのだろう。私はおかしくて、噴き出してしまった口を押さえた。ずっと見ていたかったが、担任の娘とばれてはたいへんと、そうっと外へ出た。

 歓声を後に帰り道、思い出し笑いしながら、胸がほっかりしていた。父はきっと高校でも「ちこ」を連発し、時に「ううごっちゃ」まで口にして、からかわれたり、時にさげすまれたりもしているかもしれないけれど、こども好き、生徒好きは伝わっているんだ。あの人形から、なんとなくそう思えて・・。

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