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(私のエピソード集・10) 挙式前後

女性ひとりを幸せにできないで、男と言えるか!」という言葉を、Eのノートに見つけたのは、9月に、二度目の大手術を受けた後、まもない頃だ。

ある日、彼が姉上と住むアパートを訪ねた時、机の上にあった分厚いノートに気付いた。独特の強い文字で「覚え書き」とある。何気なく表紙を開くと、一番上に、濃く強く、書いてあった。その下にも数行あったものの、ひとの秘密を、のぞいてしまった後ろめたさで、ぱっと閉じてしまい、うろ覚えの記憶になってしまったが、心に響いた言葉だった。それ以前から、この人は信じられる、という思いが、いっそう深くなったのを覚えている。

数ヶ月後、女子校での新米先生2年目は、ベビーブーム到来の最初の年に当たり、6クラス募集のはずが、13クラスにまでふくらみ、その準備のタイプ打ちや、プリント用意など、てんてこまいとなった。

教室や教員が足りず、4月から私も、高1の13組60人を受け持つことになった。前年に比べて、仕事は何倍も激務となり、放課後の部活顧問は、4つくらい持たされて、全部は対応しきれなかった。

Eの方は、無事博士論文がパスし、4月からは池袋の大学の助手に決まり、時折待ち合わせしては、忙しさの最中だったのに、デートを続けていた。

そんな時に、女子校の上級生の中には、何人か Eのファンがいたらしく、駅で Eと私を見かけた、あの二人は怪しい、という噂が飛び交っていたようだ。実際に、問い詰められたこともあり、Eにもらった、アメジストの婚約指輪を見られた時は、よけいに騒ぎになっていた。

私がどう対応したのか、今ではよく覚えていないが、私のことゆえ、否定はせず、弁解もせず、きっとありのままを話したはずだ。そう生きたいと、なるべく気高く、素直に生きたいと願っていたから。

Eと相談して、私のフルタイムの仕事は、2年間で終りにし、3月末に結婚式を挙げ、4月からは、非常勤講師として勤務することになった。

挙式の日のことは、あまり話したくない。それほど、最悪状態だった。4月から正教員から非常勤講師に変わるため、3月中に担任のすべての仕事を終える必要があった。その激務が続いた末に、重い風邪にかかっていたのだ。

当日、熱があり、鼻をかんでばかりで、顔は赤く、気分も悪かった。ドレスの花嫁衣装は、なんとか着せてもらえたが、お化粧がろくにできない状態で、係の人が困っていたのを覚えている。スケジュールが数ヶ月前から決まっていたので、変更も取りやめもできなかった。

両親と兄妹が倉敷から上京してくれて、大学や高校の友人と同僚たちも出席してくれた。

母のご機嫌のいいわけがなく、Eの母上や姉妹と、挨拶を交わしてくれたのかどうか、私にはわからないままだ。仏頂面のまま、写真におさまっているのを見ると、疑わしい。

祝辞をいくつも頂いたが、Eの恩師であり、女子校の理事長である、守谷美加雄氏の祝辞が最も印象に残っている。クリスチャンの先生は、いかにも先生らしい生き方そのままに「学者らしく清貧に生きよ。学問一筋に、金儲けのためのアルバイトとか、受験用書籍を出すなど考えるな。妻はそのことを最初から心得ておくように」という趣旨の言葉を下さった。

Eが経済的観念に弱いのは、最初のデートの日からわかっているので、家計簿や、毎月のやりくりその他、自然に私の担当になって、今に至っている。

式が終って、皆に見送られて、新婚旅行に那須・塩原・日光方面へ出かけたが、3月末からのまだ寒い時期に、北への旅だったので、風邪の治らない私には、これまた最悪の旅になった。寒くて、外歩きをしたくないのだから。

風邪が治ってからの、その後の暮らしが最高に楽しかったので、式の日周辺のことは、思い出から封じ込めている。

★若き日のEの、あの「覚え書き」を、この56年、彼は一度も口に出したことはないけれど、私は本当に幸せだった。好きな教師を続け、同人誌も読書勉強会など、私のしたいようにさせてくれ、夢が実現して出版となったり、受賞時には、心から喜んでくれた。

3年前から、彼は末期ガンの闘病生活となっていて、入退院は4回、最後の抗がん剤治療も終ってしまったが、手脚のしびれがあっても、変わらず「朝夕の散歩」を8000歩ほど続け、パソコンに向かう毎日だ。その気力と、自分の生への向き合い方に、尊敬してしまう。その姿を見て、支えなくてはと思うせいか、私は以前よりも体調がよく、しゃんとしてきた。血圧が90~100近くに上がってきたお蔭かもしれないが。

通院などに付添い、食事に配慮しながら、私はひそかに心に誓っている。「この人の最期を、幸せな思いで逝かせてあげないなんて、女がすたる!
と。

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