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(私のエピソード集・24)2枚の写真

高1と高2の4月末に写された、2枚のクラス写真を見ると、私の顔つきは大きく変化している。やせて神経質で、とがった表情で睨んで見える1年生が、ふっくらと穏やかで、心の温かさを感じさせる、2年生になっているのだ。その変化は、大人向けの小説オンリーから、読書の内容を、方向転換したのも一因と思われる。

高1の夏休み前に、6歳上の姉が、小学校教師の初ボーナスで、伊藤整訳の『小公女』完訳版を送ってくれた。表紙にも文中にも挿絵一枚ない、地味な本だった。

すぐに読み通して、私は深い感動と衝撃を覚えた。それまでに読んだ、大人向けの小説に劣らない描写や文でありながら、人間の善意や誠実さ、正義感、夢や誇りをもつことの大切さ、心の美しさを伝えてくれるものだった。

今読み返してみると、主人公のセーラは、あまりにいい子すぎるとも思えるが、当時はこういう分野があるのかと、新しい発見に思えた。

当時半分以上読みかけていた、長編の『ジャン・クリストフ』とか『チボー家の人々』を中断して、高校の図書館で探し出しては、完訳本の『愛の妖精』『若草物語』『ハイジ』『秘密の花園』などを読むにつれ、心が世界がふくらんでいった。

人間ってすばらしい。人を愛し、生きていくことはすばらしい、と思わせてくれた。

中でも強い印象を残したふたつの作品がある。エレノア・ポーター作『少女パレアナ』と、ジーン・ポーター作『リンバロストの乙女』だった。

パレアナは聖書の中に800もある「喜べ」という言葉から、神は私たちが喜ぶことを、望んでおいでに違いないと、牧師の父親に教わり、父と〈喜びの遊び〉を始める。父亡き後、気難しい叔母に引き取られるが、どんな辛いことの中からも、喜びを探し出す遊びを、パレアナは周囲の町の人々に広めていく。

そして自分自身が、事故で二度と歩けない状態になった時、今度は町の人が次々と訪ねてきて、パレアナに勇気づけられ、どんなに自分が変わったかを語り、パレアナを励ます。冷たい人に思えていた伯母の援助や、医師たちの治療のおかげで、再起できる望みも芽生え、最後は幸せを得て終わる。

この物語は1913年に発表されると、全米に大センセイションを起こし、〈喜びの遊び〉が流行し、喫茶店やホテル名、商店名に〈パレアナ〉が使われ、辞書にも一語加わるほどの社会現象を起こした。

読み通せずにいた聖書の教えの中身の一部を、この本で初めて知った一冊だった。この世には願い通りにいかないことや、醜いこと、不満や不合理が多いけれど、それでも生きて、この世にあることを、喜べと聖書は教えてくれていたのだ。見方を変えれば、耐えうるのだと・・。

『リンバロストの乙女』は、冒頭部分から、私のために書かれているようだった。母親に疎まれて、高校入学時に、服も教科書も準備してもらえず、学校で大恥をかく、主人公のエルノラ。

生物学者の〈鳥のおばさん〉の求めに応じて、リンバロストの森で採集してあった、蝶や蛾を買ってもらうことで、エルノラは自立を学んでいく。その学者に「あなたがどんな人間になるかは、自分次第なのよ・・」と、励まされる。

母親との和解を果たし、3年後のエルノラは「・・目も髪も美しい上に、包容力ともいうべきものが、内部から加わっていた。それは自信と忍耐と、愛情への憧れ、耐えざる努力、寛大さの入り混じったものだった・・こういうものが結合して、まれに見る、性格の幅と深さを、生み出したのである」と描かれている。

こんな風に、未来に〈性格の幅と深さ〉が得られるものなら、今の私の辛さも活かされるのかも、と目標を見出した気がした。

このように強い共感を覚えながら、少女たちの登場する物語を、読み続けていた9ヶ月ばかりのうちに、私の表情や顔つきが、変化していたらしい。

進学クラスにいた、中学からの親友のHが「どうしたの? すごくきれいになって、見違えてしまった」と、メモを渡してくれて、びっくりした。

また、廊下で出会った体操のO先生が、ふいに立ち止まって「きれいになったのねえ」と、まじまじと私を見て、漏らしたので、驚いて立ち尽くしてしまった。

この先生は、私が1年の時の、最初の体操の時間に「あなた、麗子さんの妹さんね」と言った後、私を頭から足の先まで見まわして「お姉さんは、あんなにおきれいだったのに・・」と、ため息をついたのだ。36キロのやせて顔色の悪い私だったもの、そう言われてもうつむくしかなかった。

姉は小さな村の祭りの時に、ミス・天神様に選ばれたことがある、ひと重まぶたの日本型美人だった。後輩に慕われて、熱烈な手紙を何度ももらっているのに、姉は返事を出さず、放りだしてあって、私が何度か読んだことがあった。私なら喜んで返事を書くわ、と思ったけれど、姉は読み書きより、体操部の方に熱中し、県大会にも出場していて、O先生には特別お世話になっていた。

体育の授業のたびに、姉と見比べられるようで、私には苦手な科目ではあり、できれば避けたい先生でもあったので、その日の先生の言葉には、驚くほかなかった。

読書の中身が、どれほど読み手に影響を与えるか、そして読む時期や、内容の選択が、どれほど大事なものか、私は身を持って、気付かされた気がしている。

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