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(129) 笑い供養

高校生の頃からの憧れのH先生を訪ねて、泊めてもらうようになったのは、私の初出版の本をお贈りした30代後半からだった。以後、何度泊めて頂いたことか。私用の布団は決まっていて、先生はブローチやネックレスを出版のたびにお祝いに下さった。私は夕食を作ったり、自作のセーターを手土産にしたりしていた。

それから数十年経ち、夫君の本田実氏を亡くされたH先生を、泊まりがけで訪ねた夜は、内輪の法要の日に当たっていた。なんとお慰めしたものか、思いあぐねていた私には、先生のいつもの笑顔と、経文唱和が気を和ませてくれた。クリスチャンの先生は、ただ瞑目して手を合わせている。

法要が終り、私と二人になった時、先生は夫君の写真を見上げながら、

「あんなに穏やかに笑っているけど、おっかない顔をしてどなるのよ。たったそれだけの事を言うのに、どなることないでしょ、とよく言ったものよ」
と、先生は打ち明け声で笑われる。

「優しい人は、怖い顔して武装しないと、言いたいことも言えないのではないかしら」と、私も笑顔で応じながら、胸うたれていた。

先生の平静さは、強い絆で結ばれた魂の存在を感じさせた。身は亡びても、夫君は先生と共におられるのだ。生涯、星の研究に打ち込まれた夫君に、生活を支え続けただけではなく、高校教員としての退職金の大半を捧げて、私設天文台を夫君に贈られたH先生だった。  

翌日の日曜は、朝7時から夜10時過ぎまで、ひっきりなしの来客で、私は接待役と、頂いた花の飾り付けに追われた。どの部屋にも花があふれて、置き場に困ってしまうほどだった。

葬儀当日の千人を超えた出席者の後にも、これほどの客が自宅に訪れるとは・・と、今さらのように故人の人徳を思った。


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その夜、疲れ果てた先生の肩をもみ、足裏を踏みしながら、数ある私の失敗談の一部を披瀝すると、先生は身をよじって苦しがるほど、お笑いになる。写真の中の夫君まで、いっしょになって笑っておられて、私は心から安堵して、帰京したのだった。


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