(私のエピソード集・22)高校受験
私が高校受験の準備を何ひとつしていないことに、初めて気づいて、頭から氷水をぶっかけられたような衝撃を受けたのは、受験当日の10日ほど前のことだった。
読み終えたパールバックの『大地』の最終巻を閉じて、ふっと教室を見回してみたら、誰もが本にかじりついていて静かなのだ。いつものクラスとあまりに違うので、前や後ろをのぞいてみると、問題集のような、解説書か参考書のような本を抱えている。
中には、カーテンで身を覆って、密室のようにして、集中している人もいた。「受験一週間前に見る問題集」とか「歴史総まとめ」などなど・・。
私が一度も開けたこともない、持ったこともない本ばかりだ。私はといえば、倉敷図書館からつぎつぎと、日本や世界の文学全集を借りてきて、寸暇も惜しまず、ずーっと読みふけっていて、パリ、ロンドン、モスクワ、中国の少し前の時代へと、心ははるかに遠い世界に飛んでいたのだった。
親友のHを見ると、やっぱり分厚い参考書を開いていた。急に置いてけぼりになったような、あせるような気持ちに駆られて、Hに頼んでみた。「読み終わったのを、どれか貸してくれない?」と。
すると彼女は、どれも今手放すのは心細いから、貸すわけにはいかないと言った。小説みたいに、読み終わると、それでおしまい、というものではないらしい。がっかりしていると、彼女はこう言ってくれた。
「うちへ泊まりにくりゃ、ええが。机を並べて、いっしょに勉強すりゃええ。参考書はうちのを、べつべつに使うて、交換すりゃええし」
私は大喜びして、すぐにその気になった。
「Hちゃんの家の人は、だいじょうぶ?」
「へいきじゃあ。みえちゃんが来る、言うたら、大歓迎してくれらあ。何日おってもええよ」
というわけで、その日のうちに、私は着替えとカバンを抱えて、自転車でHの家に押しかけて行った。
我が家の母は、反抗期真っ最中の私に、まさに手を焼いていた時期で、その頃は私が何をしようと、放任状態だった。
私が真夜中になるまで、村をうろついていようが、裏山のてっぺんで月を眺めて過ごして、2時頃寝床に戻ろうが、咎めもしなかった。
私の受験のことなど、まったくノータッチだったから、Hの家に泊まってくるから、と宣言して家を出れば、後は自由だったのだ。
それから一週間、納屋の2階の彼女の部屋で、文字通り机を並べて、参考書を借りて読破していった。彼女はたぶん何度目かの読み返しであり、確認の仕上げだったのだろう。
私は初めて読む本だったが、これまでの中学で教わったすべてを、思い返していて、全体はこうなってたの、と納得しながら、まとめをしている気分になれた。
国語と数学は、父の塾でのプリント問題をやったことがあったので、手をつけず、歴史、社会、地理、理科、英語を順にひと通り目を通した。
朝、学校へ行く時は、私の自転車の後ろに、彼女を乗せて出かけた。向かい風の中をけんめいにペダルをこぐ私が、頼もしかったそうだ。帰りも二人乗りで、彼女の家に直行する。
毎日、母上が私にもお弁当を持たせてくれて、それが心に沁みてありがたかった。彼女は自分用のニワトリを3羽飼っていたので、お弁当には丸一個分の卵焼きかゆで卵が必ず入っていて、これも我が家とは違うぜいたくさを味わわせてもらった。
ご両親も祖母の方も、心から受け入れてくれていて、居心地がよかった。彼女がどれほど愛情こめて育てられているか、よく見てとれた。
私と母との関係とは大違いの、仲むつまじい穏やかな家族のあり方を、目の当たりにした一週間だった。彼女は一度も怒られたことはないという。
父上は何でもよく教えてくれる元文学青年で、若い頃の写真が石川啄木に似ていたことを誇りにしていたそうだ。俳句会に加わって、商品にバケツやほうきを、たびたびもらってきたそうな。
私にはそんなそぶりは見せなかったが、農業を家業としている人とは思えない、教養人の雰囲気が言葉のはしばしに感じられた。
彼女は低学年の頃から、習字を習っていて、ノートも手紙も実に美しい文字で書いていた。私は思いにまかせて走り書きの、素早さだけがとり得の書き方だったが、彼女は美しさにこだわり過ぎて、書くのも返信も遅いのが、私にはじれったい限りだった。
そんな風にして過ごした一週間が、私の高校受験対策のすべてとなった。とうてい充分とは言えない、時間不足、勉強不足のまま、試験日当日となったが、それほど緊張はなく、むしろ楽しめたくらいだったのは、Hの分厚い参考書に目を通した安堵感のせいだろう。
こうしてぶじ、県立倉敷青陵高校に進学することができたのだった。
★今の受験生が知ったら、びっくりするだろうな!
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