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(私のエピソード集・19) 友だちいっぱい!

2014年1月に『1945年、鎮南浦の冬を越えて』と題して、朝鮮北部からの引揚げ回想録を出版したおかげで、多くの同郷の友ができた。

鎮南浦は、平壌(ピョンヤン)の西南にある港町だ。その町から16、000人が数回にわたり、終戦の翌年秋に脱出した。私たち母子7人も、ようやく最終回の一団に加わって、奇跡的に帰国できた。(この時、鎮南浦日本人会の役員たちの粘り強い交渉や、たいへんな陰のご苦労があったことを、後に『よみがえる鎮南浦ー鎮南浦終戦の記録』により、初めて知った)

私は終戦時5歳、引揚げ時は6歳の幼児だったが、忘れられない場面がいくつかあった。床について2,3時間は眠れない子だったので、枕元の周辺での出来事が、くっきりと記憶に残っていたのだ。

座敷を接収され、障子一枚へだてて暮らした〈ソ連軍大佐〉のこと。夜中に米など届けてくれた〈キムおじさん〉が10キロもやせたのは、私たち一家を助けたために牢に入れられたせいだったこと。住む家探しに困り果てた時、一家7人を1ヶ月半住まわせてくれた〈オモニ母娘〉のこと。

あの人たちがいなければ、私の現在も子や孫たちもない。だからこそ、書き残したかった。戦争の被害者としての悲惨を描く視点ではなく、加害者でもあった私たちを、敗戦直後の大混乱記に、守りぬいてくれた人たちの存在を、伝えたいと思った。当時、その町の朝鮮の人たちは、立場の逆転した日本人町を襲ったり、仕返しをする人が多く、まるで敵地に取り残された感があった時期だったのだ。

20代の頃に、倉敷在の母に質問状を何通も書き送り、その返事の助けで、400枚ほどにまとめたことが二度あったが、出版には至らず、雑事に追われて過ごしてしまった。

2010年、私の近辺で40歳前後の若者が、3人も自殺する出来事があった。その家の前を通るたびに、どうして死んだりするの! と胸につぶやくうち、私の母は37歳で、6人の子を必死で守って、頑張りぬいたのよ! 当時の日本中の親たちが頑張り通して、あなたたちに命を繋いだのに! と叫びたくなった。

同時に、6人いた私の兄姉妹のうち、4人がすでに亡くなり、一番弱かった私が、彼らの没年に達していて、今宿題を終えておかなくては、という思いにも駆られた。

5歳児の視点では世界が狭くなるので、6年生だった〈姉の回顧録〉の形をとったが、姉は一文も残さず逝ってしまい、あんなこと書いて! と言われそうだ。

最初『脱出まで』と題して自費出版したところ、それが長崎出版の編集者の手に渡り、全国版で出版が実現したのだった。

そして九州その他で、長年〈鎮南浦会〉が開かれていると知って、2011年から参加させて頂いた。私は学齢前だったので、亡き姉の〈6年生の会〉に入れてもらい、鎮南浦の景色や出来事など、いろいろと教わった。

90代から60代の新しい友だちを、老年になって100人以上も得られるとは、なんと幸せなことか、と当時喜びをかみしめていたが、あれから10年を経て、多くの先輩方が世を去られ、九州での会は、2015年をもって閉会となった。

今は、東京での会のみが細々と続いているが、コロナのせいで、昨年は開催が叶わなかった。今年の10月には、皆さんにぜひ再会したい、と祈り続けている。

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