短編小説「雨」

私は今何をしているんだろうか。目の前にいる男性はいつも私に興味なさげだった。遠くから見てるだけで良かったのに。

「大丈夫?お水飲む?」

今日初めて話したというのに、どうして私にこんなに優しくしてくれるんだろうと考えてみたけどそれはきっと初めて話したからだ。私だって初めて話す人に何か変な事をするという事はない。

「あ、ありがとうございます。」

私はどうやら今日飲みすぎてしまったようだ。お酒は割りと強い方だからと調子に乗ってしまった事を後悔した。彼は冷蔵庫に入っていたお水をベッドまで持ってきてくれた。

「気分悪くないですか?大丈夫ですか?」

そして横たわっている私をゆっくりと起こして隣に座り、ペットボトルのキャップを外して渡してくれた。

「大丈夫です。ありがとうございます。」

しかしどうして私はホテルにいるんだろうか。自分でもびっくりするくらい記憶が飛んでいる。

「あの、どうして私ここにいるんですか…?」

「もしかして覚えてないんですか?」

「はい…。」

彼は話してくれた。会社の飲み会で飲みすぎた私の事を上司が頑張って介抱しろよと押し付けて帰宅してしまったそうだ。べろべろに酔っている私の事を放置するわけにもいかず、かといって家も知らないし自分の家に連れて帰るわけにもいかないしで近くにあったここに入ったとの事だった。

「そうだったんですね。ごめんなさい、迷惑かけてしまって。」

「いえ、とんでもないです。」

会社で見かけた事は何回もあるのに部署が違うせいで話す事なんて無かった。そんな彼が今こうして傍にいるのが不思議な感覚がしてしょうがなかった。でもこんな酷い姿を見せてしまうなんてお酒を飲む前の私は想像もしてなかっただろう。

「えっと、麻美さんでしたっけ?」

「はい、そうです。」

「俺そろそろ帰宅しますね。」

彼はそう言って私に背を向けてベッドから降りようとした。私は咄嗟に腕を掴んでしまった。

「あ、ごめんなさい…。」

私は彼の腕から手を離した。彼は驚いて私の方を見た。その時私のスマホが鳴ったのが分かった。鞄に入れっぱなしで音は小さいけど確かに鳴った。ちょっとだけ気まずい空気が流れたが、彼は私のカバンをソファから持ってきてくれた。

私はありがとうと伝えて鞄からスマホを取り出した。通知を見てみると私が帰宅しない事を気にした婚約者からだった。左手の薬指に指輪をしていたのを思い出した。彼にこれを見られてしまっただろうか。

「麻美さん、結婚してるんですよね。旦那さんじゃないんですか?」

彼は恐る恐る言ってきた。まだ旦那ではないが彼の反応は正しいのだ。私は今こうして彼といるのは婚約者にとって裏切りでしかないのだ。私は指輪を外したくなった。

「まだ結婚してないんだけどね。」

私は彼に聞こえるかくらいの声で呟いた。

「もう大丈夫そうでしたら旦那さんのところに帰ってあげてください。」

彼はそう言って鞄以外の荷物も私のところに持ってきてくれた。どうして彼は優しいんだろう。私の婚約者はきっとこんな事してくれない。どうしても彼と婚約者を比べてしまう自分に嫌気が差した。彼と婚約者を比べるなんて彼に失礼だ。

「忠人さんは優しいんですね。」

「そりゃ、放っておけないですから。」

彼の一言がどんな意味を含んでいるのかは思考回路が鈍っている私には到底分からなかった。

「麻美さん、またみんなで飲みに行きましょう。今日楽しかったですから。」

彼はそう言って帰宅の準備を始めた。彼の優しさが心に突き刺さって胸が痛くなった。こんな想いをするなら彼との婚約をするんじゃなかった。なあなあで生きてきてしまった私に罰が下ったんだ、きっと。

私は渋々スーツの上着を着て鞄を持った。そして彼もスーツを着て鞄を持った。忘れ物がないか確認をしてくれた。何もしないで帰宅するのはなんだかんだで人生で初めてかもしれない。

「忘れ物はないみたいですね。行きましょう。」

「迷惑かけてごめんなさいね。一人で帰れるから先に行ってもいいですか?」

これ以上彼と一緒にいたらきっともっと迷惑をかけてしまうだろう。明日からまた彼の事は遠くから眺めるだけにしよう。これは罰なんだ。

「分かりました。気を付けて帰ってくださいね。」

彼の言葉を聞いて私は一人でエレベーターに乗ってホテルを後にした。外は雨が降っている。どうしてブルーな時に雨が降るんだろう。私の心にザーっと降りかかってるような気がした。私は溜息をついて近くに停まっていたタクシーを拾った。


END

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