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退職日記終 よなす歩き出す

3月24日(水)

最終出社日。最終日なんてやることないだろうとタカを括って前日に「明日半休とっていいですか」と聞いたら「それは……ちょっと……」と苦笑された。これだからゆとりは困るな。

いろんな人に挨拶をしに行くと、何人かには「いいなあ、俺も辞めたいよ」と言われた。辞めればいいじゃないですか。思っていたよりは面倒くさかったけど難しくはないですよ。そう思っても言わない程度の分別がこの一年でついた。代わりに「そっか、退職金もらったことないんですね(笑)僕はもらいましたよ(笑)」と言ったら微妙な顔をされた。ちょうどいい加減が分からない。

最終日とはいえ何かとやることはあって、最終的に大量のサイン本を発送して、無事退職となった。四十冊の単行本を段ボールに詰めて、封をして、パレットに積んでいく。本のぎっしり詰まった重い箱を運びながら、何故だかふと「ああ、家に帰ったら親に謝ろう」と思った。ちゃんと出来なくて、普通に出来なくて、ごめんね。
なんだか急に申し訳なくなった、というか、許されたくなったのだ。

定時を少し過ぎてから荷物をまとめて、机をふいて、コートを着た。
「では…お世話になりまして…」
立ち去ろうとすると、同じ部署で一番のベテラン社員さんが見送りにきてくれた。ロマンスグレーが素敵なその先輩を、僕はそんな年齢でもないのに心の中でいつも「おじいさん」と呼んでいた。
「なんだか不思議ですね。明日も普通に来そうなのに」
通用口まで二人でのんびり歩きながらおじいさんがそういった時、フフっと少し笑ってしまった。僕もちょうど、同じことを考えていたから。
僕たちは同じくらい声が小さくて、声の大きい人だらけの部署の中で発言を聞き取ってもらえないことがしばしあった。二人でぽそぽそと立ち話をしている時は、傍から見れば二人で無言で立っているように見えたかもしれない。

さよなら。お元気で。近くに来たら寄ってくださいね。そんな言葉を同じトーンで交わして、おじいさんと別れた。春分の日を四日過ぎた空はまだ朱の混じらない青をしていて、少しひんやりとした空気は吸い込んでも鼻の奥がヒリっとしなかった。

荷物の入った紙袋を両手にガサガサと駅までの道のりを歩く。また、空っぽになってしまったなあ、と思った。明日からやることも行く場所も、何もないのだ。それでも、果てしない空っぽを前にしながら不思議と不安も寂しさもなかった。両手の紙袋の中には本と餞別のお菓子が入っていて、これがあればどこへでも行けそうだなと思った。

この、あたたかくほの明るい透明の中を、明日から生きていくのか。

明日から何をしよう。考え始めてすぐ、いや、まずはこのまま新宿に行って映画を見ようと思いなおした。

僕は今日以外のことを考えるのが、あまり得意ではないのだ。

よなすの冒険 社会人編 —完—