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She

彼女はくだらない悪戯をするのが好きだった。
たとえば、二人で電車に乗ったときのこと。最寄り駅に電車が滑り込む直前、彼女は取り出した裏紙に何かサっと書いて席においたと思うと何を書いたのか見せる間もなく僕を急かして電車から降りる。
「何て書いたんだい?」
僕が聞くと彼女はいたずらっぽく笑って答えるのだ。
「ぬれています」

夜、電車のつり革につかまってゆられながら僕は目の前の空いた座席に置かれた紙をぼんやりと眺めた。
「ぬれています」
もう随分会っていない彼女のことをふと思い出したのはその紙を見たからだ。さっきから何人もの人がここに座ろうとしてその紙を見てあきらめたように去って行った。しかし自分の手で湿った座席を確かめる人はいない。これも彼女の言う通り。
「おかしくない?ちょっとかがんで手を伸ばすだけのことを無精して自分で確かめないなんて。そんなんだからメタボになるのよ。そんな奴は立つべきだわ、健康のために。」

【続く】