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退職日記4 よなす歌う

退職とはあまり関係ないが、なんだかよく分からないことがあった。

2月16日

よなすは都内某所の某音楽事務所で冷めたコーヒーを飲んでいた。カラオケなどでよくある「歌って応募してみよう」というものに応募してみたら某事務所から某連絡が来て、某そんなことになったのだった。よなすは、こういうのって本当にちゃんとあるんだなと思った。
ジョイサウンドだったかDAMだったか定かでないが、応募しようと思ったのは、たしか「なんで僕は歌ってないんだろう?」と素朴に疑問に思ったからであった。要するに、なんだか歌って見たくなったのだ。

通された部屋でやけに背もたれの長い椅子に座って待っていると、プロデューサー然とした男性が部屋に入ってきた。礼儀作法として、腰を上げるべきだと頭では分かっていたが重い尻と足の筋力不足で立ち上がれず、彼が名刺を出した時にようやく腰が浮いた。やはり名刺には「プロデューサー」と書いてあった。

彼はこれまでのよなすの舞台のことだとか、大学のことだとか、仕事のことを聞いた。よなすは聞かれるままに、魚のことだとか、バッテリーのことだとか、小説のことを話した。男は面白そうに聞いていた。
話すうちに、「どういう風になりたいですか?」と聞かれ、よなすは戸惑いながら
「どういう風になりたい…と思ったことがないのです。」と正直に答えた。どんな風になりたいかなんて今まで考えたことがなかった。「ただ、歌えたらいいなと思ってきました。」
男は「分かりました」と答えた。

そのままレコーディングルームに入って、歌った。自分の声がヘッドホンからガンガンに聞こえる状態で歌うというのは新鮮な出来事で、なんだか面白くて歌いながらよなすは笑ってしまった。アーティストってすごく歌いづらい環境で歌ってるんだな、と思った。

レコーディングを終えて改めて背もたれの長い椅子に腰かけると、男は言った。
「作詞作曲をして、歌うっていうのはどうでしょう。」
「作曲…はしたことないですが…作詞なら。」
「やったことありますか。」
「ないです。俳句ならありますが。」
よなすの言葉に男は笑いながら言った。
「じゃあ、まずは作詞をしてみましょう。出来たらこのアドレスに送ってください。」
「わかりました。」

では、と事務所を出て名刺を持ったままよなすは底冷えする道を歩いた。
なんだか人生って面白く出来てるなと思った。