退職日記3 よなす、鴨さんに会う

久しく退職日記をサボっていたら、なんだか、とにかくいろんなことがあった。

順を追って日記を書く。

2月13日

鴨さんに会った。ただそれだけの話なのだが、ここ最近僕の中にプチ夏目漱石ブームが来ており、彼は自身の記録をほとんど残さず弟子たちの記録が資料として頼りであったというから、僕の日記も後の浅生鴨研究者に重宝されるかもしれぬ、と妄想して楽しくなりながら書いている。人生の楽しいことの大体は妄想と空想と想像だ。

渋谷駅で降りて、テクテクと道玄坂をのぼり、青山通りをのんびり歩いてネコノスへ。ドアは細く開いていたが、一応インターフォンを押すと髭と髪伸び放題のくまさん、もとい鴨さんが出てきた。ネコの巣から、くまさん。
後でTwitterを確認すると、「髭と髪が伸び放題でクマみたいになっているけど、怖がらないでください」というDMが来ていた。

鴨さんはコーヒーを入れながら、まず「仕事は無事やめられそう?」と聞いた。
そんなことを聞かれるのは初めてだったので少し笑ってしまった。「いえ」
「やっぱり退職願を出すのはちょっと待ってと言われているので…分かりませんネ…」
鴨さんはそっかあ…と言いながら、また
「よなかくんはどうしてたいの?だらだらしてたい?」と聞いた。
僕は「よく…わかりません。」と答えた。

働くのは嫌いではない気がするが忙しいのは好きじゃない。思えば学生時代からずっと忙しかった気がするので一度とてつもない暇、をやってみたくはあった。
そんなことをしどろもどろに答えながら、ああ、本当に自分のことを語るのが下手だなと思った。

二日前。二時間ほどかけて歩いて家に帰った。西日があたたかくて風が気持ちよくて、水面が光ってきれいで。世界の大切なことのすべてがここにあると思った。これで、これがあれば、もう十分だと。

高校生の時、「ディズニーダンサーのオーディションを受けないか」とダンスの先生に言われて、ダンスは好きだけどダンサーになりたいわけじゃなかったので「受けない」と答えたら「勿体ない」と言われた。
大学で物理の研究をしていて、そのまま院に進めば大手メーカーに入れるのに院で研究分野を変える時、「勿体ない」と言われた。
大学院で魚の研究をして、文系就職した時、「勿体ない」と言われた。
そして今、それなりに高い倍率で入った出版社を一年で辞めると言った時、「勿体ない」と言われている。

欲しいものなんて大してないのに、ずっと「勿体ない」という言葉に追いかけられている気がする。自分が過敏なだけかもしれないが、その言葉を聞くたびに、なんだかなあと思う。

そんなことをポツリポツリと話すと、鴨さんは
「それは、勿体なくなんて、ないよ!」とガバッと身を起こして言い、何かを慌てて探し始めた。今の僕にぴったりの本、的なものが出てくるのかと思った。違った。タバコだった。

ベランダでタバコを吸いながら、鴨さんは鴨さんのこれまでの人生の話をしてくれた。脈絡のないピースのような人生。そんな日々が、出会いが、経験が、つながっていく瞬間がある。「いつか、どこかで必ずつながっていく時がくるよ」
そんな話を楽しく聞きながら、僕は別に、全部がつながらなくても、無駄になっても、それでもいいなと思った。

インデザインの本をもらって、お土産のミニたい焼きを置いて帰った。
「ハッピーバレン鯛ん(大爆笑)」とDMを送ると、「それについては改めてきっちり説教します」と返ってきた。