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【短編小説】幸せってこういうこと?

#幸せ #一次創作 #短編小説 #入院生活

 僕は今、5階建ての病院の屋上に死ぬ気でいる。入院して2年。いつまでこんな生活を続けたら治るんだ。

 入院した当初は1ヶ月で退院できると思います、と主治医は言った。だが、その主治医は僕が入院して1週間くらいで事故死した。

 それからというものの、別の医師になったので薬も変わった。漢方薬に変更になった。それからというものの、調子はイマイチで気分は沈み、幻聴や幻覚・妄想などは以前より増えた。

 前の医師が言うには、僕の病名は双極性障害だと言っていた。気分の浮き沈みが激しく、時には自殺する人もいるらしい。確かに浮き沈みは激しいかもしれない。

 でも、薬が変わってから、調子も悪くなり、気持ちの浮き沈みは多少あるものの、前より平板になった。楽と言えば楽だが、気分が優れない。それを新しい主治医に何度も訴えても、薬は変わらず様子を見ましょうで約2年が過ぎた。

 そのせいで仕事も自己退職するハメになった。最悪だ。
 
 僕の名前は坂木信彦さかきのぶひこ、36歳。今年の12月で37歳になる。容姿は男の割には背が低い方。病院の薄味の食事のお陰か痩せている。

 僕は障害年金を貰っていて、病院で管理されている。本当は自分で管理したいのに。だから、買い物したい時は、事務に行ってお金を貰う。

 こんなに長く入院させておいて、病院の金儲けではないかと思う。確かに調子はあまり良くないけれど。仕方ない、調子が良くなったら主治医に退院の話しをしてみよう。因みに僕の病名は、双極性障害と統合失調症の2つあるらしい。この前の回診の時言っていた。

 病室は2人部屋だが、入院しているのは僕しかいない。なので、個室みたいなもの。でも、看護師の話しでは明日、この部屋に入院する患者さんがいるらしい。どんな人だろう。仲良くなれればいいな。因みに、ここは解放病棟。

 僕の症状と言えば、うつ状態による意欲減退、活動の減少。躁状態による気分の高揚、活動の増加、眠れない。統合失調症による幻聴、幻覚、妄想がある。全て、薬でコントロールしている。でも、コントロールできない時がある。例えば、眠れない時は疲れていれば、入眠しやすいが、疲れてない時は薬を飲んでもなかなか眠れない時がある。たまに希死念慮がある。要は、死にたくなることだ。

 今は病歴2年くらいで症状は時々ある。完全に失くすのはできないのだろうか。今、症状が顕著に現れているのは、意欲減退、幻聴、妄想だ。食欲もないし、昼ご飯や夕食を残すと看護師に、
「あら、坂木さん、残したの? 食欲ないの?」
 と言われる。いちいち言われるのがウザい。でも、女性看護師は僕のことを考えて言っていると思うから、
「はい、食べたくないんです」
 正直に答える。
「調子悪い?」
「はい、調子悪いです」
「あら、そう。先生に言っておくから」
 忙しなくその女性看護師は他の患者のところに行った。

 午後2時頃から回診が始まった。回診は毎週火曜日のこの時間くらいから始まる。
 さっきまで屋上に死ぬ気になっていたが、外の風に当たっている内に気分が変わったので自分の部屋に降りてきた。これで良かったのだろうか、死んでしまった方が良かったのではなかろうか? 悲しむ人などそんなにいないし。たまに、こういうことで悩むことがある。生きる価値などないのではなかろかと。
 20分くらいしてから、僕がいる部屋に主治医と女性看護師入ってきた。主治医は背が低く太っている。髪も禿げ上がっていて、残された髪は白くなっていた。年齢は60代くらいだろう。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。調子はどうですか?」
 優しい口調だが、処方する薬は合っていないと思う。
「調子悪いです」
 主治医は眉間に皺を寄せて何やら考えている様子。
「どういうふうに調子悪いの?」
「死にたくなったり、幻聴聞こえたり、看護師に陰口を言われているんじゃないかとか思っちゃいまして」
「薬を変えますか」
「はい、お願いします」
「もしかしたら、漢方は貴方に合っていないのかもしれない。今まで様子を診てきましたが」
 僕は内心、やっとかよ、と思っていた。
「今日の夕食後から別な薬に変えますから」
「わかりました」
 それで、僕の回診は終わった。

 どんな薬だろう? と、そればかり気にして夕方までソワソワして落ち着かなかった。そんな中でも昼寝はした。

 目覚めた時は午後4時くらいだった。約1時間寝たようだ。相変わらず気分は良くない。別な薬を飲んで様子をみよう。5時30分には看護師が薬を持って来てくれるだろう。

 ベッドの上に置いてあるスマートフォンを見るとLINEがきていた。友達の斎藤一馬さいとうかずまからだ。彼は僕が辞めた会社で一緒に働いていた奴だ。年は僕より1つ若く、35歳だ。でも、斎藤の方が1年早く入社していた。どんな仕事かと言うと、車の整備士。この資格は僕は3級、斎藤は2級だ。LINEを開いてみると、
<こんちは! 調子はどう?>
 今日は火曜日だから会社は休みなはず。こうやって暇になれば、気遣ってくれて良い奴だ。
<こんにちは。調子悪いわー。さっき、主治医の回診で調子悪い旨を話したら、薬を変えると言っていたから、それに期待しているよ>
 LINEは少ししてきた。斎藤、暇なのかな? 彼女とは会っていないのか。
<そうなんだ、早く良くなるといいな>
<全くだ。それはそうと、彼女とは上手くいってるのか?>
 斎藤は黙った。どうしたんだろう。そしておもむろに、
<それがさ……昨日、喧嘩しちゃって、暫く連絡してこないで! と言われちゃったよ……>
 僕は、え!? と思った。どうしてそんなこと言われたのか知りたくて訊いてみた。
<何でそんなこと言われたんだ?>
<いや、それがさ、会社の事務員と昼飯食いに行ったところを見られて、何で1人で行かないの? と問い詰められて、たまたま言っただけだ。疚しい気持ちはない、と説明したんだけど、わかってもらえずに今に至るのさ>
 なるほどな、と思い、僕はこう言った。
<嫉妬されるのも無理はないかもな。あの子可愛いから>
<まあ、それは否定はしない。でも、本当に疚しい気持ちはないんだ>
<そうかぁ、斎藤は真面目だから浮気はしないよな。彼女と付き合ってどれくらいだ?>
<2年くらいかな>
<結構長いな。僕は、1年と続いたことないよ>
<そうなんだ。ところで、外泊は出来ないの?>
<主治医に訊いてみないとわからないけれど、多分、出来るんじゃないか。何で?>
<もっと、たくさん喋りたくて>
<そうか、わかった>
<じゃあ、訊いたら返事ちょうだい?>
<わかった>
 とりあえずはこれでLINEのやり取りは終わった。1時間くらいはLINEをやっていたかもしれないので疲れてしまった。

 翌日の午前10時頃。予定通り2人用の僕の病室に新患が入院してきた。僕は窓側が良いと女性看護師に言うと、わかったよ、と言い僕は隣のベッドに荷物を持って移った。中年の女性看護師は新しい患者に向かって、
「隣にいるのは坂木さんって言うの。自己紹介してね」
「あ……初めまして。住谷修一です」
 年齢は僕と同じくらいだろうか、後で訊いてみよう。それにしても、住谷さんは具合いが悪そうだ。僕も人のことは言えないけれど、青白い顔をしている。なんていう病気なのだろう。気になる。

 住谷さんの両親だろう、入院のための道具を運んできて、ロッカーにしまっている。彼の両親は、
「こんにちは。よろしくね!」
 顔をくしゃくしゃにしながら挨拶してくれた。僕も挨拶した。
「こちらこそよろしくお願いします」
 住谷さんと、その両親を交互に見ながら言った。
 彼は眼鏡をかけていて、かなりの巨漢。過去に何があったのだろう。
 僕の方に椅子がひとつあるので声を掛けた。
「あのう、椅子ありますよ」
 母親が僕の言葉に気付き、
「あ! ありがとね」
 と言った。母親は60代くらいだろう。見た目だけの判断だが。父親は
70代くらいだろうか。まだ、言葉を交わしていない。
 隣の3人の話し声が聞こえてくる。耳を傾けているわけではないのだが。
病院代の話しや、住谷さんの仕事のこと。そして、これからのこと。凄く現実的な話しばかりだ。
 30分程話していて父親は言った。
「さて、そろそろ帰ろうか」
 母親も言った。
「そうだね。修一、早く治すんだよ。職場には電話しておくから」
 住谷さんは頷いただけなのか声が聞こえない。病気のせいで覇気がないのか、それとも、もともとの大人しい性格なのかはわからないが。

 住谷さんの両親が帰った後、病室の中はしん、と静まり返った。少しして住谷さんの方から洟をすする音が聴こえてきた。嗚咽をもらす音も。どうしたのだろう? と思い、カーテン越しに声を掛けてみた。
「あの、大丈夫ですか?」
 返答がない。聞こえていなかったかな、と思いもう一度声を掛けた。
「住谷さん、どうしたんですか? 看護師呼びますか?」
 返事がないままナースコールを押したのかスピーカーから看護師の声が聞こえてきた。
「住谷さん、どうしました?」
 彼は泣きながら言った。
「帰りたい……です」
「今、行くのでお待ちください」
 看護師はとんできた。彼らも住谷さんとは面識がないはずだから多分、どういう人かわからないから急いで来たのだろう。
 中年の女性看護師が入って来た。
「住谷さん? どうなされました?」
「ボクを……ボクをお家に帰して下さい」
「どうしてです?」
「寂しくて……不安で……。誰も知っている人もいないし……」
 看護師はキョトンとしていた。そして、こう言った。
「住谷さん、病気を治してから帰りましょうね。それに、隣には貴方と年の近い坂木さんもいるから友達になるといいわよ。彼は良い人よ」
「……嫌です。友達なんかいりません。お母さんを呼んで下さい。僕は帰ります……。こんなところにいたくない……」
「じゃあ、今からもう一度お母さんに来ていただくから、お話ししてね」
 女性看護師にそう言われると彼は笑みを浮かべた。

 そんな簡単に治療もせずに退院できるのかな。住谷さんはどことなく周りの人と比べて雰囲気が違う。どうしてだろう。顔付きもどことなく変だ。僕は思った。もしかして知的障がい者? いや、どうだろう。違うかな。わからない。でも、それっぽい。
 僕は高校卒業後、障がい者と接する仕事に就いた。そこには精神障害者・知的障害者・身体障害者の三障害の人たちがいた。住谷さんが知的障害者と思ったのはその施設で障がい者を見る目が養われたからなのかもしれない。

 約1時間後、住谷さんのお母さんが悲しそうな顔つきで病室に入って来た。まずは僕に、「こんにちは」と挨拶してくれた。僕も「こんにちは」と挨拶した。そして彼のお母さんは優しくこう言った。
「修一、入院してまだ半日も経ってないじゃない。まずは、お医者さんに修一の具合いの悪いところを治してもらおう? そしたら、もっと楽しく生活できるから」
 不安気な表情で住谷さんは言った。
「本当? 本当にこの病気が治ったら楽しく過ごせる?」
 住谷さんのお母さんを見ていると、彼の目を凝視して、「もちろん!」と言った。
「お母さんが言うならそうだね。わかった、ボク、がんばる。がんばってこの病気を治してお家に帰る!」
 気合いのこもった喋りだと思った。でも、言葉遣いが年齢の割には幼稚。やはり知的障がい者なのか。それにしても住谷さんは気持ちの切り替えが早い。彼のお母さんの言い方も良かったのかもしれないが。
「看護師さんにそう伝えておくからね」
 住谷さんのお母さんはそう言って部屋を出て、ナースステーションの方に向かって行った。数分後、彼のお母さんが再び来て、
「修一、お母さん、忙しいから帰るね」
 その後、僕の方を見て、「よろしくお願いします」と言って出て行った。

 住谷さんは気持ちが落ち着いたからなのか、大きないびきをかきながら寝始めた。彼の心の中では、不安で不安で仕方なく、かなり疲弊したのかもしれない。だから、すぐに寝入ったのかもしれない。

 忘れていたことがある。それは、斎藤一馬と遊ぶために外泊できないかどうか看護師に訊くこと。僕は体を起こし、ナースステーションに向かった。
「あのう、すみません」
 体格の良い中年の女性看護師がいた。
「あら、坂木君。ここに来るなんて珍しいじゃない。どうしたの?」
「訊きたいことがあって来たんですけど、外泊ってできますか?」
「あら、それも珍しい。先生に訊いとくよ。訊いたら伝えるから」
「わかりました、よろしくお願いします」
「因みにこの前、調子が悪いって言ってたけどどうなの?」
「それは薬が変わったので様子見です」
 女性看護師は難しい顔をした。
「うーん、様子見ならもしかしたら、外泊だめかもね。外出なら良いかもしれないけど。どちらにしろ、まずは、訊いとくね」
 話し終えて僕はデイルームに行った。

 そこには入院していて知り合った女性がいた。
「あ、遠野とおのさんだ。こんにちは」
 彼女は遠野明美とおのあけみという。年齢は教えてくれない。
「こんにちは、坂木君。調子はどう?」
「それがさー、あんまり良くないんだー。だから、先生に言って薬変えてもらった」
「そうなんだ。それで良くなるといいね」
 そう言って彼女は去って行った。あれ? いつもなら喋ってくれるのに、今回はいなくなっちゃった……。機嫌悪いのかな? わからないけれど。僕はデイルームでテレビを観始めた。午後5時からドラマが放送されるので。
そこに中年の体格の良い女性看護師が来た。そして、こう言った。
「坂木君は相変わらずドラマ好きねえ」
「好きですよ、映画も好きだし」
「へぇ、それは初耳。どんな映画観るの?」
「そうですね、SFとかアクションが好きです。あとラブロマンスも」
「あ! ラブロマンス良いよね! 面白い」
「ですよね」
 僕と女性看護師は映画で意気投合した。何となく嬉しい。何となく、と言うのには理由がある。統合失調症のせいで、気持ちが平板になり、喜怒哀楽があまり表に出なくなった。感情鈍麻というらしい。でも、主治医が言うには、感情鈍麻を病気として捉えるかが問題だと言う。僕は病気だと思っている。ただ、感情鈍麻を改善する薬はないらしい。人生設計という大それたものではないが、少なくとも、自分の中でこうやって生きていきたいと思った通りにはいっていない。まあ、人生なんてそんなものかもしれない。
 女性看護師も僕と一緒にドラマを観ている。少し観てから女性看護師は言った。「もう少しで夕ご飯だよ」そう言って去って行った。

 今夜から薬が変わるので、期待している。調子良くなればいいけれど。

 再び先ほどの女性看護師がやって来てこう言った。
「坂木君、お薬渡すから部屋に戻ってね」
「わかりました」
 テレビを消し、部屋に戻った。デイルームにいた僕以外の2~3人の患者さんはテレビは観ていなく、本や雑誌を観ていた。

 ベッドに座っていると、さっきとは別の若く痩せた看護師が病室に入って来た。「坂木君、新しいお薬よ。渡しておくから」
「ありがとうございます」
 薬を見てみると前の漢方の薬は顆粒だったが、今回の薬は錠剤3粒だ。それを引き出しにしまった。夕ご飯を食べたら飲むことになっている。

 時刻は午後5時40分。若い男性看護師が、「ご飯ですよー!」と叫んだ。ぞろぞろと患者さんがいつもの場所に集まった。薄味の病院食には慣れた。最初の頃、味が薄いので不味くて食べられなかったので、残して下膳しようとすると、看護師に言われた。
「あら、ちゃんと食べないと駄目じゃない。美味しくない?」
「はい、味が薄くて……すみません」
「でもねえ、内科のおかずよりは味は少し濃いのよ」
 そうなのか、と思い僕はこう言った。
「明日から頑張って食べます」
 そう言ってからトボトボと病室に戻った。
 そういう記憶がある。

 今日の夕食のおかずは、煮魚と昆布の佃煮、豆腐とネギが入った味噌汁、それとご飯。食堂には20人くらいはいるだろう。その中で1番最初に食べ終わった。トレーを下膳し、すぐに食堂から病室に戻った。薬とコップを持って水を汲みに行き、そこで薬を飲んだ。斎藤一馬と遊びたいから早く調子を取り戻したい。1週間くらい様子をみればいいかな。それか、次の回診の
時に主治医に訊いてもいいだろう。

 翌朝の5時頃。病室に当直だった若い女性の看護師がやって来て採血と検温をしていった。体温は起きたばかりか35.3℃といつものように低い。体温が低いと体の免疫力が低いと聞いたことがある。ということは、病気にもなりやすいらしい。日中、看護師から体温計を借りてもう一度、検温してみよう。病院の規則で起床時間は6時30分となっている。それまでにはまだ時間があるので、もう一度目をつむり眠った。眠りが浅かったからか夢をみた。内容は、僕が病院をから荷物を持って逃げ出して、自宅に行った。両親
はかくまってくれて親が病院に電話をしてくれて、退院した、というもの。そんなことが出来るはずがない。そんなことをしたら2度と通院できなくなってしまう。それは困る。でも、なぜそんな夢をみたのか? そういう願望があるのか? わからない。

 夢の話しを同じ病棟に入院している遠野明美さんに話してみた。するとこう言った。「もしかしたら、そういう願望があるのかもね」と笑いながら言った。人のことだと思って笑っている。全く。遠野さんの病名は以前訊いた時、双極性障害と言っていた。僕と同じ病気を抱えている。ただ、統合失調症ではないみたいでそこが羨ましい。それに今は安定しているみたいだし。

 遠野さんの退院は近いという。あー、話せる患者さんが減ってしまう。そう思った。僕と同い年くらいの患者さんは男女共にいるが、そんなに多いわけじゃない。あと、話せるとしたら男性1名、女性2名くらいだ。男性は、20代。女性は、20代と30代が1人ずつ。男性の方から話しかけてくることは殆どなく、いつも僕の方から話しかけてばかりだ。だから、つまらない時が多い。相手から積極的に話しかけてくれる方が楽しい。逆に30代の女性は話しかけてくれるから嬉しいし、面白い。

 
 薬が変わって、約1週間が経過した。調子はまずまず。変えてもらって良かった。今日は、回診の日。もうそろそろ退院してもいいと思ったので、主治医に話してみた。すると、こう言った。
「来週の回診まで様子をみましょう。それで、調子が良いままなら退院しますか。そのためにはまず、外出をして、その後、外泊をしてみる流れになるね。それを1週間の内にやってみるのさ」
「わかりました、じゃあ、明日、外出していいですか?」
「うん、いいよ。細かい話は看護師と話して決めていいから。言っておくからね」
「はい、ありがとうございます!」
 僕は嬉しかった。今まで生きてきてこんなに嬉しい気持ちになったことはない。
 明るい気分で退院したら何をしよう。読書や以前書いていた小説執筆もいいなぁ。読書するならまずは本屋に行こうかな。暫くそこには行っていない。そもそも、病院から出ることが少ないから。久しぶりに読むのにホラー小説は刺激が強いから、恋愛小説を読もうかな。執筆するならどんな内容の作品がいいかな。これも恋愛小説かな。でも、この系統は心理描写が難しい。まあ、リハビリのつもりで書くか。決して上手くなくてもいい。1番最初の読者は書き手である自分だから。自分で書いた作品が面白くなければ、他の読者が読んでも面白くないかもしれない。最初はそれを承知の上で書くかな。考えていくとワクワクしてきた。早く退院して、好きなことをしたい!

 珍しく暫くの間、上体を起こしていると中年の女性看護師がやって来た。僕に用事かな? と思って見ているとそうではなく、隣に入院している住谷修一さんのところ行った。僕の方に目線を移すと、看護師はこう言った。
「あら、坂木君。起きてるのね。珍しいじゃない。いつもなら横になってるのに」
「うん、何か起きていたくて」
「そう。疲れるまで起きてちゃだめよ」
「はい、わかりました」

 今度は若い女性看護師が病室に入って来た。そしてこう言った。
「坂木さん、外出の話だけど明日するんでしょ。午前に行く? それとも午後から行く?」 
 笑顔を浮かべながら話してくれている。
「午前に行きたいです、何時まで外出していいんですか?」
「午前からね、わかった。夕食までに帰ってくれば大丈夫よ」
「わかりました!」
「何だか急に元気になったね」
 看護師は笑いながら言っている。
「そうですね! 退院できそうなのがめっちゃ嬉しくて!!」
「そう、それは良かったね。それと、お家の人に外出することを伝えておいた方がいいよ。急に帰ったら驚くだろうからね」
「はい!」
 そう言って看護師は去って行った。そして早速実家に電話をかけた。僕はスマートフォンを使っている。電話代は障害年金の中から支払っている。
「もしもし、母さん」
『信彦!? どうしたの。電話してくるなんて珍しいわね』
「うん、明日、外出できるんだ。午前中から夕食の時間まで」
『へえ、そう。それで?』
「迎えに来て欲しいんだ」
 今は午後3時頃、母と話すのはいつ以来だろう。
『いいけどどうして急に』
「退院に向けて外出するんだ。外泊もするし、1週間後に調子崩してなかったら退院なんだ」
『へえ、そうなんだ。あんたも入院ながいからねえ』
「そう、いい加減嫌になったよ。とりあえず、明日午前中に迎えにきてね」
『わかったよ。準備してまってて。午前何時頃がいいの?』
 僕は少し考えてからこう言った。
「9時!」
『わかったよ、その時間に行くから』
「うん、待ってる」

 僕はすぐにナースステーションに行き、
「明日、9時頃、母が迎えに来てくれます」
 と言い、中年の女性看護師は、
「そう、わかった、よかったね!」
 一緒になって喜んでくれた。それも嬉しい。それから、話せる友達みんなに行って回った。すると、羨ましがっていた。デイルームにいた遠野明美はもう少しで退院らしいからそういう反応ではなく、
「私とどっちが早いだろうね、退院」
 と言った。
「僕は1週間後だよ」
「そうなんだ。私より早いかも」
「遠野さんは外出や外泊はしないの?」
「するよ。近い内に」
「そうか、良かったね」
「ありがと」
「退院したら遊ぼう?」
 僕はそう言うと、
「うん、いいよ」
 と言った。
「じゃあ、LINE交換しよう」
「うん」
 LINEをQRコードで交換した。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「遠野さんは車の免許持ってる?」
「持ってたけど流しちゃった」
「あら、そうなんだ。そりゃ、もったいない」
 彼女はその時のことを思い出したかのように悔しそうな表情になった。
「油断していたらついうっかりしちゃってね」
「そうなんだ。それもまた悔しいね」
 彼女は頷いた。
「僕は免許も車も持っているから遊ぶ時、迎えに行くよ」
「ほんと? ありがとう!」
「退院したら連絡ちょうだい?」
「うん、わかった。その時はよろしくね!」
「わかったー」

 翌日の朝になり、看護師が入って来てまずは検温。時刻は5:31とスマートフォンの画面を見ると表示されている。
「おはよう」
 と若い女性の看護師に声を掛けられる。僕も挨拶した。
「おはようございます」
「今日、外出なんだって? 気分はどう?」
「そうなんですよ、気分はまあまあですね」
「歩いて帰るの?」
「いえ、母が迎えに来てくれます」
「そうなんだ、それなら良かったね。今日も天気がいいから日射しも強いと思うし」
「そうですね」
 ピピッと体温計が鳴った。36.4℃、平熱だね。そう言って隣に入院している住谷さんのところに行った。さて、顔を洗おう。洗顔と歯磨きをする道具を洗面器に入れて洗面所に向かった。

 朝食は7時30分過ぎに食べる。それまでまだ少し時間があるのでデイルームでテレビを観ることにした。早朝のニュース番組が放送していた。朝から殺人事件や窃盗事件、有名人の自死と暗いものばかりだ。世知辛い世の中だなと改めて感じた。まあ、今に始まったわけじゃないけれど。

 デイルームには僕しかいなく、横になってテレビを観ていたらいつの間にか眠ってしまった。でも、30分くらいで目覚めた。やはり、睡眠薬を飲まないと長い時間寝れない。この時の時刻は6時を少し回ったところだった。
 誰か来ないかなーと思っていると、女友だちが来た。名前は
浅間亮子あさまりょうこという。年齢は確か27歳だったはず。体型はぽっちゃりしていて優しい女性だ。
「おはよう」
 僕の方から声を掛けた。浅間さんも
「おはようございます」
 欠伸をしながら挨拶してくれた。彼女は礼儀正しく、真面目だと思う。病名は統合失調症と言っていた。
「調子はどう?」
 彼女に訊いてみた。
「あんまり良くないです……」
 確かに顔色も良くないし、怠そうだ。起きたばかりだからだろうか。
「大丈夫?」
 浅間さんは俯きながら首を左右に振った。
「それなら主治医に言った方がいいよ」
「そうします」
 浅間さんはこう言った。
「ナースステーションに行って、看護師さんにも伝えますね」
「その方がいいね」
 そう言ってデイルームからいなくなった。

 朝食は、生卵と納豆と味海苔だった。質素だけど美味しかった。それから外出の準備を始めた。朝の薬は飲んだから良いとして、昼食後の薬は持って
行かなければならない。夕食後の薬は病院で飲むから置いていく。

 僕はパジャマからジーンズと青いTシャツに着替えた。時刻は8時30分くらい。もう少ししたら母が来てくれるだろう。

 精神科にも様々な症状の患者さんがいる。幻聴・幻覚・妄想・抑うつ・人格の入れ替わりなど、僕が知っているのはそれくらい。でも、まだまだいろいろな症状はあると思う。何でこんなこと思ったかと言うと、僕より辛い思いをしている患者さん達が大勢いるはずだから。

 ベッドには横にならず、腰掛けていると母がやってきた。久しぶりに会う。
「信彦」
 言いながら笑顔で手を振っている。僕は照れもあり、手は振らなかった。笑顔も見せなかった。僕は立ち上がり、
「行こう」
 と言った。母は、
「貴重品は持った?」
 というので僕は、
「もちろん!」
 強い口調で言った。
 先に歩き出すと、母は後ろから着いてくる。内心は母に会えて嬉しい。でもそれを表に出すのは恥ずかしいので敢えてむさい顔をしている。

 シルバーの乗用車に僕は後部座席に乗った。荷物を奥に置いて。予め鍵を開けてもらっていた。少し遅れて母が運転席に座った。
「信彦、怒ってるの? お母さん、何かした?」
「いや」
「じゃあ、何でそんなに不愛想なの?」
 僕は苛々した。
「この年で母親と仲良く歩くのは嫌だよ。恥ずかしい」
「恥ずかしいってかい、酷い話ね」
 確かに酷いかもしれない。でも、恥ずかしいのには変わりはない。それにしても母は少し年をとったように見える。僕も一年一年、年齢を重ねていくわけだから母も同様に年をとるということだ。

「さて、帰ろうか。あんたも久しぶりじゃない。我が家に帰るのは」
「そうだね」
「嬉しい?」
「え。まあ、嬉しくないわけじゃないよ」
「なら、もっと嬉しそうにしてよ」
 でも、なぜか笑えなかった。なぜだろう。そのことが気になった。病気のせいだろうか。感情鈍麻が影響しているのか。わからない。そのことを母に打ち明けてみた。するとこう言った。
「そんなちょっとしたこと気にしなくていいのよ。単に笑いたくなかったから笑えなかっただけでしょ」
 母は簡単に言ってのけた。でも、確かにそうかもしれない。気にし過ぎかも。
「あんたの病気は一生完治しないんだから、それを受け入れないと。主治医の林先生も言ってたでしょ」
 結構キツイ言い方だが、間違いではない。母は正統派だと思う。

 自宅に着いて、荷物を持ち車から降りた。
「何時までに帰ればいい?」
 母は言った。
「夕食までに帰らないといけないみたい」
「だから、それが何時か? て訊いてるの」
「うーん、多分5時半前だと思う」
 母も車から降りて、鍵をかけた。家に入ろうとした僕に母は言った。
「薬は持って来たんでしょ?」
「あるよ、とりあえず家の中に入ろう」
 父は不在だ。仕事中なのだろう。10歳年下の妹もいない。仕事に行っていないと思う。僕は妹のことが大好きだ。だから、いないのは寂しい。
 妹は、実直で素直。顔も僕と違って綺麗な顔立ちだ。二重で鼻筋も通っている。彼氏はいるのかな。いてもおかしくない年頃だけれど。27歳だと思う。中には結婚して子どももいる女性はたくさんいる。帰って来たら訊いてみよう。僕が帰るまでに仕事から帰宅するといいけれど。僕も彼女がいたらいいなぁと思うけれど、無職だし、病気もあるしで相手にされないと思う。
 それを母に言うとこう言った。
「何を言ってるの、その若さで。まだまだ諦める必要はないよ」
 そうかなぁ、僕は今年で37歳になる。正直、自信はない。

 母さんは、
「お昼ご飯食べに行こうか。お父さんやのぞみはいないから、2人で行くんだけどね」
 望というのは僕の妹の名前。
「父さんは別にいいけど、望がいないのかぁ……」
「仕方ないじゃない、仕事なんだから」
「まあ、そうだけどさ」
「あんたは望のことが大好きだもんね」
 僕は思わず笑った。確かにそうだ。でも、望は僕のことをどう思っているのだろう。お見舞いにも来てくれないし。まあ、両親ですら来ないのだから妹は来るわけないか。
「何が食べたい?」
 母が言った。
「ラーメンが食べたいな」
「わかった。たまに行くところに行こうか」
「え? たまに3人で行ってるの?」
「うん、でもたまによ。滅多にいかないけどね。じゃあ、行くよ。支度しな」
「僕はこの格好でいいよ」
 今の姿は、黄色いTシャツと紺色のハーフパンツを履いている。
「じゃあ、私は着替えてくるわ。ちょっと待ってて。あと化粧も薄くするから」

 約30分後、母は言った。
「ごめんね。準備できたから行こう」
 こうしてようやくラーメン屋に行ける。味噌味がいいな。いつもだけれど。僕が先に家から出て、その後、母が出て家の鍵をかった。それから車の鍵を開けて僕は助手席に乗って母は運転席に乗ってエンジンをかけた。ゆっくりとバックをし、発進した。10分近く走り、ラーメン屋の駐車場に停めた。店内に入るといい匂いがした。食欲をそそられる。店員数名が、
「いらっしゃいませー!」
 勢いよく言った。若い女性店員がやって来て、
「2名様ですか?」
「はい、そうです」
 母が対応した。
「カウンター席と、小上がりがありますがどちらがよろしいですか?」
 今はそんなに酷く混んでいない。
「小上がりで」
「わかりました。こちらどうぞー」
 店員は僕たちを促してくれ、席についた。
「メニュー表はそちらにありますので、お決まりになりましたらお呼び下さい」
 僕は初めてこの店に来た。店内は結構広く、でも、時間帯がお昼を過ぎたからか、お客さんは5、6人しかいなかった。
 母はメニュー表を僕に見せてくれた。いろいろな種類のラーメンがあって目移りする。
「じゃあ、白味噌角煮ラーメンにしようかな」
「大盛りじゃなくていいの?」
 母が訊く。
「うん、大丈夫」
「そう。じゃあ、私はチャーシュー麺にするわ」
 決まったので母は店員を呼んだ。
「すみませーん!」
「はーい!」
 店員は返事をしてこちらにやって来た。
「お決まりでしょうか?」
「うん、白味噌角煮ラーメンとチャーシュー麺」
 伝票に書き込みながら、
「はい、少々お待ち下さい」
 と言って、この場を離れた。

 10分程待っていると注文したラーメンが運ばれて来た。と、その時だ。店員は手を滑らせたのかラーメン丼をひっくり返してしまった。テーブルの上と母のズボンに汁がこぼれた。
「熱っ!」
「あ! すみません、今おしぼりをお持ち致します」
 店員は焦った様子で、
「申し訳ございません!」
 母は、
「ジーパンにもかかったのよ!」
 と怒っている。そこに、頭に白いタオルを巻いて男性がやって来た。
「お客様、大変申し訳ございません。クリーニング代を払わせていただきますのでどうか穏便に……」
「当たり前よ! それとラーメンはいらない! 気分悪い!」
 母はカンカンに怒っている。僕は母の様子を窺っているとこう言った。
「私、トイレに行って拭いてくる」
 母は自分と僕のおしぼりを持ってトイレに向かった。トイレの方から母の声が聞こえてきた。
「もう!」
 どうしたんだろうと思い見ていると、どうやら先にお客さんが女子トイレに入っていたようだ。それで入れなく苛ついてそう発狂したようだ。出てきたお客さんは僕より若くて綺麗な女性。母のことを睨んでいるようにも見える。

 そんなことは気にも留めない様子で女子トイレに入っていった。作り立てのラーメンだから熱かっただろう。母さん、可哀想に。せっかく食べれると思ったのに。

 暫くして母は戻ってきた。ぶつぶつ文句を言いながら。
「信彦! 行くよ! こんな店2度と来るもんか!」
 先程の男性店員がやって来て、母に封筒を渡そうとしていた。
「これ、クリーニング代です。申し訳ありませんでした」
 頭を深々と下げ、謝罪している。母はそれをむしり取り、さっさと歩いて出て行ったので、僕も慌ててついて行った。店の中は静まり返っていた。車の中で母はこう言った。
「とりあえず家に戻って着替えるわ」
「うん、別にラーメン屋じゃなく、母さんが作ってくれたものでもいいよ」
「あら、そうなの? じゃあ、何がいいの?」
 僕は考えたがその前に、
「まずは着替えに帰ろう。因みに、生姜焼きがいいな」
 そう言って家路へと向かった。

 時刻は午後1時を過ぎていた。母が着替えている間、僕は居間で横になって寛いでいた。少しして母は別のブルージーンズに履き替えて寝室から居間に出てきた。
「じゃあ、私、スーパー行ってお肉買って来るから少し待ってて」
「わかった」
「お腹空いたでしょ?」
「まあね」
 返事をすると母の表情が曇った。
「全ては、あのラーメン屋のせいよ」
 母はまだ根に持っているようだ。結構、執念深いんだな、前と少し変わったかも、と思った。
「まあ、向こうもやる気でやったわけじゃないし、もう水に流そうよ」
「あんたは被害にあってないからそんなことが言えるのよ。凄く熱かったんだから」
「まあ、そうかもしれないけどさ」
「とりあえず買い物行って来る。あんたも行く?」
「いや、僕は家にいるよ。疲れた」
「そう、じゃあ休んでなさい」
 母はそう言って出かけて行った。僕はそのまま横になっていると昼寝をした。

 30分くらいして母は帰って来た。
「ただいまー」
「おかえり」
「お腹空いたね」
「そうだね」
 母はエプロンを身に着け、早速、生姜焼きを作り始めた。
 今は夏、ご飯ができるまで外に出ると灼熱の太陽の熱が容赦なく浴びせられる。耐えられなくなり、僕はすぐに家の中に戻った。
「あちー!」
「そりゃそうよ。今日はかなり暑いから熱中症に気を付けないと」
 確かに、と思った。こういう時こそスタミナ料理がいいだろう。体力が保たれて。

 母はスライスされた豚肉を全て焼いた。10枚はあるだろう。僕の皿に7枚、母は3枚焼いた豚肉を盛りつけた。その上から生姜焼きのタレをかけた。病院で少しの量しか食べられないのに慣れてしまい、母がよそってくれたご飯の量は多かった。なので、減らしてもらった。
「ずいぶん食べなくなったのね」
 母はそう言った。
「うん、病院のご飯が少ないからね。それに慣れちゃった」
「なるほどね、そういうことかぁ」
「だから肉の枚数は5枚ずつにしよう。ご飯の量もへらして」
「わかったよ」
 母は何となく残念そうに見えたのは気のせいだろうか。僕にたくさん食べて欲しかったのかな。でも、仕方ない。無理して食べるのは良くないし。
 
 1枚食べてみたらめっちゃ旨い! これはご飯も進むわ。結局ご飯は2膳食べたからか、母は満足気だ。
「食べれるんじゃない」
「そうみたいだわ、おかずに寄るのかな」
 僕は苦笑いを浮かべた。
「そういうのを、贅沢、て言うのよ」
 母は笑っている。確かに母の言うことには一理ある。

 完食した。美味しかったなー! 今日は調子悪くならずに済んだのであとは、自宅に泊まってみてそれで調子崩れなければ退院だ。

 時刻は16時過ぎなので、あと1時間もすれば病院に戻らなくてはならない。面倒くさいなぁ、このまま退院したい、無理な話しだけれど。

「今度はさ、泊まりにくるから。それで調子崩れなければ退院さ。だから、その時はよろしく」
「わかったよ」
 果たして僕は退院後、働けるだろうか? まずは作業所に通って、それから障がい者枠で働けるといいな。どうなることやら。でも、少しずつでも着実に前に進んでいる。僕だってやればできるはず。年齢だってまだ30代で若いし。

 ついさっき病院に戻って来た。若い男性看護師は言った。
「久しぶりの実家どうでした?」
「ああ、母の作った豚肉の生姜焼きが凄く美味しくて、ご飯2膳食べました」
「そうなんだ、それは良かったですね!」
 優しい眼差しで看護師は僕を見つめている。
「あのう、主治医に言われたんですけど、泊まってみて調子が崩れなければ退院、と言われたんですけど、いつ泊まりに行っていいですか?」
 若い男性看護師は考えている様子。
「うーん、そうですねえ、ちょっと待ってて下さい。先生に訊いてきますから」
「わかりました」
 30分くらい経過してから直接、主治医が来てくれた。
「坂木さん」
「あ、先生」
「焦る必要はないですよ。焦ると失敗しやすくなるから。だから泊まりは数日経ってからにしましょう」
「僕は早く退院したいんです! 調子もまずまずだし、明日泊まりに行っていいですか?」
 主治医は難しい表情になった。やばいな、と一瞬思った。
「坂木さん、ぼくの言うことを聞いてください。焦ったらだめなのはぼくの経験上の話しです。なので間違いありません」
 怒られるかと思ったが、主治医は淡々と話してくれた。
 年齢は見た目、僕より一回りくらい上だろうか。50歳に満たないだろう。
 なので、ショックは受けなかった。
「わかりました」
「じゃあ、今、決めますか。3日間空けて、4日目に泊まりに行きますか」
「はい」
 主治医は妙な説得力がある。それに年齢相応の貫禄もある。体型のせいも
あるのかもしれない。主治医は背が高く、太っている。言い方を変えれば、
威圧感がある。
「なので、今日が金曜日だから、来週の火曜日に泊まりに行きましょう。いいですか?」
「はい、わかりました」
「では、そういうことで」
 言い残し主治医は病室を後にした。

 僕は自分の意見を貫き通せなかった。主治医のあの落ち着き払った態度で言われたら、わかりました、と言うしかない。3日間何をして過ごそう。暇だ。この暇な時間が嫌なのだ。でも、仕方ない。寝て過ごすか。

 病院で夕飯も食べたし、また寝るか。ベッドに入り目を瞑った。しかし、睡眠薬を飲んでないので眠れない。それに今は19時30分過ぎだ。寝るには早い時間帯。ただ、早く3日間が過ぎればと思って寝ているだけだ。明日、母に来週の火曜日に実家に泊まる旨を話そうと思っている。
 
 翌日の午前7時頃、僕は母の携帯電話にかけた。
「もしもし、母さん?」
 母は既に起きているようだ。
『どうしたの? こんな早くに』
「来週の火曜日に泊まりに行くから迎え頼むね」
『もう、外泊かい!』
「うん、昨日、主治医と話して決まった」
『そう、わかった』
 それだけ伝えて電話を切った。


 そして3日目の夜。明日、実家に外泊をする準備を始めた。若い女性の看護師が様子を見に来たようで話しかけられた。
「いよいよ明日は外泊ですね」
「そうですね、早く退院して社会復帰したくて」
「それは良いことだと思います。ただ、長い間入院していたからいなくなるのは寂しいですよ」
「そうですか? それはそれで嬉しいです」
 僕は久しぶりに笑った、いつ以来だろう。いつもむさくるしい表情でいるのは自覚している。だからと言って笑顔でいることを意識するつもりはない。
 そして翌日の朝ご飯を食べ終えて母に電話をした。だが、暫く鳴らしたが繋がらない。どうしたのだろう。1度、電話を切って折り返しの電話を待った。
 少しして電話が来た。母からだ。
「もしもし、母さん」
「ああ、ごめんね。郵便屋さん来てて」
「そうなんだ、今、来れる?」
 話しに間が空いた。
「今かい、まだ朝ご飯食べてないのよ。食べたら行くから」
 僕は内心、遅いなぁ、と思った。まあ、仕方ない。家の両親は食べるのが遅いから。というか、年齢を重ねて徐々に遅くなった気がする。
「わかったよ、1時間くらいで来れる?」
「そうね、それくらい時間あれば行けると思う」
「じゃあ、待ってる。気を付けて。焦らなくていいから。事故ってもやばいし」
「うん、ありがとね」
 そう言って電話を切った。それから僕はまた寝た。

 目覚めてスマートフォンを見ると10時を過ぎていた。だが、母の姿はない。電話をしてから1時間以上経っている。何で来ないんだ? 着信もないようだ。もう1度、母に電話をかけるとすぐに繋がった。
「もしもし? 母さん?」
『ああ、信彦。あんた寝てたから帰って来たのよ』
「起こせば良かっただろ」
『それも何だか可哀想で。せっかく寝てるから。あんた寝れなくて困ってたじゃない』
「そうだけど、薬飲めば寝れるんだ。そんなことより今から来てくれよ。もう朝ご飯食べただろ?」
『明日じゃだめ?』
「何でそうなるんだよ! 主治医には今日って言われてるんだぞ!」
 思わず語気が強くなった。
『わかったよ。今から行くから待ってて』
 隣に入院している知的障がい者の住谷修一さんはカーテンをチラリと開けてこちらを見ている。ちょっと声が大きくなってしまった。電話を終えてから住谷さんに言った。
「住谷さん、ごめんね。大きな声出してしまって」
「いえ、大丈夫」

 それから約30分後、母が来た。ようやくだ。
「今度は起きてたね」
「起きてるよ!」
「じゃあ、行きましょ」
 僕は母の後ろからついて歩いた。それにしても暑い。母のうなじを見ると汗をかいていた。そんな中来てくれてありがたいと思えた。

 家に着き、まっすぐ浴室に向かってシャワーを浴びた。
「ふーっ、気持ちよかった」
 温度はぬるま湯のシャワーにした。
 僕は居間に行き、ソファに座った。
「今日はお父さんや望とも会えるね」
「うん、望には会いたいな。自慢の妹だし」

 妹の望は社会福祉協議会に努めている。頭もいいし。見た目も可愛いと思う。シスコンてやつだ。望は午後5時まで仕事なはずだ。だから、もう少ししたら帰ってくるだろう。父はいつ頃帰宅するのかな? 母に訊いてみた。すると、「毎日残業してるから6時~7時の間かな」と言っていた。

 玄関のドアが開く音が聴こえた。望かな、と思ったので玄関に小走りで向かった。玄関には妹の姿があった。
「あ! お兄ちゃん! 久しぶり。元気してた?」
「ああ、僕は最近になって調子いいぞ」
「そう! なら良かった」
 望は相変わらず可愛い風貌だ。紺色のスーツをビシッと着こなしている。なかなか格好いいじゃないか、そう言うと、
「ほんと? ありがとう! あんまり言われないから嬉しい」
「そうなのか。充分、カッコイイぞ!」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「いや、いいんだけどね」
 望は、着替えて来る、と言って2階に向かった。

 時刻は午後5時30分を過ぎたところ。妹が2階から降りてきた。母は、
「あら、望、シャワー浴びないの?」
「寝る前に浴びる。今浴びてもまた汗かくから」
「そう。それなら朝浴びればいいじゃない」
「嫌よ、時間ないもの。朝は少しでも遅くまで寝ていたいからさ」
 僕は喋り出した。
「仕事は今でも変わってないんだろ?」
「うん、変わってないよ」
「何たっけ? 社会福祉協議会か?」
「そう。覚えていてくれたんだね」
「ああ、可愛い妹の職場の名前くらい覚えてないとな」
 母は話しに入ってきた。
「あんたは、望のことが本当に大好きね」
「ああ、そうだよ。望が僕のことをどう思っているかはわからないけれど」
 望が話し出した。
「私だって……私だって、おにいちゃんのこと、好きだよ。ていうか、何で兄妹でカミングアウトしいてるわけ? 可笑しいよ。それより、夕食のおかず作ってよ、お母さん」
 母は苦笑いを浮かべながらこう言った。
「望は照れてるのよ、きっと」
「照れてないもん」
 ぷぅーっと頬を膨らませた妹は可愛い。僕と母はゲラゲラ笑った。
「あんまり苛めないでよね」
 母はこう言った。
「別に苛めてないよ。ねえ、信彦。望が言ってるのは被害妄想だよ」
 僕も母に賛同したので、そうそう、と言った。

「さて、夕飯作ろうかね」
 と母は言った後に妹は質問した。
「今夜は何?」
 母は答えた。
「カツ丼だよ」
 望は言った。
「やったー! お母さんのカツ丼美味しいよね!」
「そうかい? ありがとね」
 更に妹は言った。
「お母さんの、ありがとね、っていう台詞すんなり出てくるのは素直で可愛いよ」
 それを聞いて母は、
「可愛いってかい。別に可愛くないよ。でも、嬉しい」
 やはり素直な発言の母。
「お父さんが帰って来るまでに作らないとね」
 そう言って母は台所に立った。すると望も台所に行き、
「お母さん、手伝おうか?」
 と言うと母は言った。
「信彦が来てるからって、いいところ見せようと思って」
 再び、母と僕は爆笑した。
「そんなことないもん! お母さんの意地悪!」
 母は更に続けた。
「まあまあ、持ち上げたり悪く言ってみたり忙しいねー」
「だってそうじゃん」
 僕は仲裁に入った。
「望、そんなに怒ることないんじゃないの?」
 妹は黙っていた。
「そうね。大人げなかった」
 母は、言った。
「手伝ってくれる?」
 望は、ぱあっと表情が明るくなり、
「うん!」
 と答えた。ようやくこれで事が進む。これ以上、余計なことは言わないでおこう。少なくとも僕は。

 時刻は六時三十分をまわったところ。玄関のドアが開き、ただいまー、という父の声が聴こえた。僕は居間の床で横になっていたが起きた。父も居間にきて、僕の存在に気付いたようだ。父は言った。
「おー! 信彦じゃないか。久しぶりだな。退院したのか?」
「父さん、久しぶり。まだ、退院してないよ。退院する前に外泊して調子崩さなかったら、退院できるのさ」
 父は笑みを見せていた。僕も父に久々に会えて嬉しい。父もきっと嬉しいと思ってくれているだろう。

 父は言った。
「母さん、俺の下着用意してくれ。シャワー浴びる」
「わかったよ、今、用意するね」
 僕は母さんに訊いた。
「父さんって、晩酌するの?」
「うん、してるよ」
「休肝日ってある?」
「ないねえ、お父さんはどこも悪いところないから今のところは休肝日作らなくても大丈夫かもね」
 妹の望は自分の部屋にいるようだ。何をしているのだろう。特に用はないが話したい。なので、望の部屋に行ってみた。ドアの前でノックをした。すると、「はーい」と高音の声が聴こえてきた。「僕だよ」と言った。
「入っていいよ」妹は言った。ガチャリと音をたててドアのノブを回した。
「何してた? ほんと久しぶりだな」
「そうね、今は手芸してた。最近はまっているのよ」
「へぇ、ちなみに何を作っているんだ?」
「靴下よ」
「大きさ的に男性用って感じる」
「実はね、彼氏ができてさ。クリスマスまでには完成させたいと思って」
 僕は妹に彼氏ができたと聞いて不快になった。僕の大好きな望、誰にも渡したくない。なので質問してみた。
「付き合ってどれくらい経つんだ?」
 望は破顔一笑している。
「そうねえ、2ヶ月くらいかな」
「まだ、付き合いたてだな。僕とどっちが好きだ?」
「え? それは比べられないよ。彼氏とお兄ちゃんじゃ」
「そうか」
 僕は苦笑いを浮かべた。
「どんな奴か見たいな」
 僕の発言に驚いた様子でこちらを見た。
「それはまだ早いよ、早くても1年くらい経たないと。お父さんには内緒なの。だから言わないでね」
「何で内緒なの?」
 訊かなくても何となく察しはついたが。
「元カレみたいに会わせろってうるさいからよ」
 僕も同じことを思っていた。
「まあ、可愛い一人娘だからどこの父親も同じじゃないか」
「そうかもしれないね。でも、それがウザいのよ。親に合せるのは、結婚を
考え出した時だと私は思ってるの」
「なるほどな、納得した。父さんには言わないよ。あんまり話しかけたら集中できないな。でも、久しぶりに話せて楽しかった。僕は下に行くよ」
 そう言って望の部屋を後にした。

 居間の時計を見ると7時を回っていた。父は白いシャツと青いハーフパンツを身にまとい缶ビールを呑んでいる。週に1回くらいは休肝日を作れば肝臓の負担も軽減されるのに。それを直接父に言ってみた。するとこう言った。「こんな暑いのに吞まずにいられるか!」それに対し僕は、
「まあ、僕は薬と合わないからお酒の旨さがわからないけれど」
 もともと僕はほとんどお酒を呑まない。好きじゃない、と言った方が正しいだろう。
「それはそうだな。呑まない方が健康には良いかもしれん」

 母は、「信彦の布団敷いてくるから。あんたの部屋にね」
 僕は、「うん、ありがとう」と返事をした。
 僕の部屋は、望の隣の部屋だ。

 台所に行ってみると丼4つにカツ丼が盛られていた。旨そう。思わずつまみ食いをしたくなる。そういうことはしないが。不意に父が話しかけて
きた。「退院できるといいな」意外なことを父は言った。以前は殆ど僕の病気に対して理解がなかったのに、一体どういう風の吹き回しだ。

 母は僕の布団を敷き終えたのだろう、2階から降りてきた。
「さあ、食べるよ!」
 大きな声で母は言った。すると、望は自分の部屋から出てきた。
「カツ丼、カツ丼!」
 妹は気分上々のようだ、可愛い。
 母はトレーに丼をのせ居間に運びながら言った。
「望、お味噌汁運んで」
「うん」
 と言って立ち上がり、母と同様、居間のテーブルに運んだ。
「さあ、みんな、座ってね。今日は信彦がお泊りだからカツ丼よ!」
 ビールを飲みながら父は言った。
「お! 今日はカツ丼か。旨そうだな。もう一本呑んだら食うわ」
 母は父に言った。
「冷めない内に食べてね」
「ラップしてくれ」
「めんどくさいわねえ」
 母が言うので望は言った。
「いいよ、お母さん。私がするから」
「わかったよ、ありがとね」
 みんなが席についたので母が言った。
「じゃあ、食べようか。いただきまーす」
 僕と望もそれに習って、
「いただきまーす!」
 そう言って食べ始めた。僕は叫びに近い声を上げた
「旨い! 最高!」
 母は笑みを浮かべながら言った。
「うん、作って良かった」
 望も、「美味しいね」と言って満足気だ。父はまだビールを一人で呑んでいる。僕は言った。
「お父さんも早く食べた方がいいよ」
「わかってる、もう少しで飲み終わるから急かすな」
 そう言うとみんなで爆笑した。

 夕食後、僕はシャワーを浴びた。その後に、望、母の順でシャワーを浴びた。幸せってこういうことなのかな。何気ない生活のようだけれど、なかなかできない家庭もあるだろう。家族仲良くというのは。僕も多分、退院できるだろうから地道に頑張っていこうと思う。家族のために、自分のために。

                             (終)

 
 

 

 
 

 




 

 



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