Things lost(失われたもの)

職を失って、働くということは一般的な暮らしの維持に必須なものだったんだなと改めて思った。

引っ越しをしたくなっても新規契約ができない、もう新しく作ることは無いけれど、クレジットカードも作れない。個人の信用を担保するものは所属だったんだ。
私は一般的には信頼度が高く安定した業種かつ所属先に雇用されていたので、これまでいわゆる信用審査に落ちたことは無かった。パンデミックの中でも内的要因とは別に仕事や収入が減ることも無かった。福利厚生で半額は勤め先が年金・保険料を負担していたし、その他の優待等を利用することもできた。
日常をこなしていけば自動的に給与が支給され、浪費することがなければ貯金がたまっていった。

過去の自分が遺したものによって、全くの無収入になった今も、物理的な面においては暮らしは維持できている。家賃や公共料金通信費以外の主な出費である食費も、備蓄がたくさんある(むしろあり過ぎる)ので、その消費に忙しいくらいで新たな買い物はごくわずかだ。

完全に惰性だけで余生を送っている。非生産の極みだ。

私の社会的使命は既に終了したので、後は身じまいだけ。だから正直もう収入が無くとも充分過ぎるくらいの貯蓄はある。逆に、新しい何か、この先、betterなものを作り出していくためにはあまりにも足りない。そしてもうこのノーガード社会の中で、新たな所属を探し出し働いていくこともできない。

だから、合理的な帰結として、せめて納得のいく形で畳めるよう、準備をしている。突発的には行わない。きちんと片付けて、諸々解約して、整える。時間的にも金銭的にも猶予があるのだから。
雇用保険の失業給付手続きもしていない。端金のためにノーマスクのいる空間へ出向くことも、個人情報を売り渡すことも、感染リスクを充分コントロールできる新たな就業先などありもしないのに求職活動をしているふりをすることも、あまりにマイナスだ。

体力的にも知的にも顕著な衰えが始まる前に、せめてもの尊厳のために閉じる。そしてその中で綴り、遺していく。どこまで書くかはまだ決めかねているけれども、私のようなケースは外から気付かれることが稀で、当事者研究の分野においても薄いところだから。
臨床研究で参考になるところがあるかもしれないし、後世において史実的な資料になるかもしれない。似たような人が、読んで明るい気持ちになることはないだろうけれども、自分だけじゃなかったと思えるかもしれない。
もう労働という形で直接他に貢献できることが無くなったので、せめて、ね。


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