鮎歌 #00 Web Magazine 鮎歌 -Ayuka- 創刊言
1.創刊言
「詩のないところに詩がある」という詩句をよすがにして、「Web Magazine 鮎歌 -Ayuka-」を創刊します。
「もはや詩が書けない」という、現実(うつつ)のまえにうちひしがれた、人間の淋しさを絞り出したようにして書かれた詩句への共感を第一に。第二に、戦後最大の作家と言っても過言ではない大江健三郎の次の言葉。
文学でない分野の問題を、文学の課題とするという姿勢。そういう意味で、「文学的でないもの」「詩的でないもの」への接近から、「詩」を見つめてみようとすること。端的に言えば、このようなスタンスで「マガジン」を作ってみたいということです。
2.詩の形
あと、もう少しお話しますと、次のような考えも背景にあります。
「詩」は、あまりに「詩」になりすぎたのではないか。
どういうことか。
厳密に言うのならば、いくつかのレベルに分けて語らねばなりませんが、ここでは、ひとことで、「詩」が「言語藝術」という文学形式の一ジャンル、そんな細い小道に迷い込みすぎたのではないか、と雑駁ながら言い換えてみましょう。
なぜ、このような思いにいたったか、と言いますと、いま、私たちが「詩」と呼びならわしているものは、それこそ「近代文学」として「西洋」から輸入したものです。(もちろん、「日本文学」が培ってきたものの延長にあるので、とつぜん何もなかったものがとつぜんあらわれたということではありません)
日本文学史を勉強すると、一般に、日本近代詩の成立に大きく貢献したのは「新体詩」の運動であり、その後の「文学界」の活躍や島崎藤村の『若菜集』、象徴主義の受容などを経て、萩原朔太郎を「日本近代詩の父」と称すことによって「完成」を見たというのが基本的な知見です。そうして、「西洋」的に言うところの「藝術」の一ジャンルとしての位置を確かなものにしていったわけです。
ところがです。
またずいぶんと時代を遡りますが、『万葉集』なんていう古代日本の歌、たとえば伝説的な歌人・柿本人麻呂の長歌を読んでみますと、「新体詩」を待つまでもなく、ここに「詩」があったじゃないか!と叫んでみたくなるような思いがしてくるわけです。こういうものです。
さきほども言いましたが、とうぜん、「新体詩」の形を決めるために「長歌」の伝統が顧みられたことでしょうし、それこそ「長歌」と「近代詩」論なんていうことをはじめると僕の手に負えなくなるので触れませんが、僕はここで敢えて言ってみたいことがあります。ただ、おそらくこのことに誰も異論を言う人はいないでしょうし、何をいまさらという誹りを免れないことを承知で言いますと、僕は、この柿本人麻呂の「歌」を「詩」と呼びたいと思うのです。
繰り返しますが、柿本人麻呂が「詩人」であることをどなたも否定されないと思いますし、ここで「歌」=「詩」だということを言いたいのでもありません。まず、一つ言いたいことは、「詩」を、「西洋近代」が作り出した「藝術」の「一ジャンル」に閉じ込めたくないということです。
この「長歌」の形が、パッと見、「現代詩」に似ているから、というわけではありません。話の発端としては、似ているということもありますが、それよりも問題は、たとえば古代ギリシアの大詩人ホメロスが書いたものは長大な叙事詩であり、それはほとんど今日で言うところの「物語」や「小説」という形をしているように、「詩」をもっと大きく解釈してもいいのではないか、ということです。(おそらくこのことにもあまり異論はないと思いますが)
では、いったいどんな「形」を作ろうというのか? という話になりますが、それを「詩のないところ」に行きながら、考えていこうということでもあるわけです。
3.歌い添える
それともう一つ、柿本人麻呂の「歌」を引っ張りだしてきたのは、その「歌」をうたうことと、うたわれるものとの関係性に着目してみたいということもあります。
どうも「歌」というのは、諸説あるところですが、たとえば、折口信夫が考えたところでは、まだ文字のない時代に、「神様の言葉」を伝えるために「韻文」「律文」として生まれたものだとされています。それこそ、人麻呂が得意としていたのは、「神」や「天皇」など、畏敬の対象の「お気持ち」を「代作」する「歌」でした。そこから、個人の思いを歌い、恋心まで歌うものになったのではないかと言われています。
事の真偽は別にして、問題は、「歌」はいつも、何かとともにあった、ということです。人や、物や、季節の移ろいや、さまざまな出来事とともに。やがては形骸化していきましたが、「歌」はもっと生活に根ざした「実用」的なものでさえあったということです。(それはまさに「詩のないところ」でもあるわけです。)
「歌物語」たる『伊勢物語』のように、叙事としての「散文」と、抒情としての「歌」。あれは、どっちが「主」か、という議論もありますが、「歌」というのは、叙事に対して「添え」られた花のようなものにも思えます。古代には、遠く離れる故郷や大事な人との別れに。あるいは挽歌などは人々の死に。平安時代には、恋の想いに「添え」られもして。
人や、物や、季節の移ろいやさまざまな出来事。──といえば、なんだかはじめから美しいもののように思えますが、実際は、変わりばえのしない、毎日毎日満員電車にゆられて、今日も仕事か……と、ためいきをつきながらすごす、いたましい「現実」です。
まさに「詩のないところ」に「詩」を「添え」てきたということ。
そのようなありかたが、現実で失われてしまったとか、そういうことではなく、意識的にそのようにありたいと思うようになりました。
現代日本最大の詩人・吉増剛造さんが『詩学講義 無限のエコー』(慶應義塾大学出版会2012.12)のなかで「歌い添える」というありかたについて語っています。体系化された明確な定義があるわけではありませんが、さすがの詩人的直観で、この言葉に導かれていきたいと思っています。
彼の述べる「歌い添える」というありかたを実現する、というのはおそらく僕の手には負えませんが、できる限り、このマガジンでは、「歌い添える」というイメージも、根本に置いておきたいと思います。
生活のなかの、大事な瞬間。巡りくる季節のなかで、人々の記憶とともにあり、人や、物や、できごとでの感動も、苦悩も、歌い、添える。
そういう姿勢で、このマガジンを運営していきたいと思います。
4.歌うことしかありはしない
中原中也をはじめとして、僕がかつて心を寄せた立原道造もやたらと「歌」にこだわりました。今回の「Ayuka」という雑誌のネーミングには、立原道造の「鮎の歌」のインスピレーションがあったわけですが(このあたりはまた別の記事にて語りたいと思います)、僕もこう言いたいと思います。
歌うこと、歌うことしかありはしない、と。
また、これは僕の現実的な問題でもあり、文学形式の問題でもあるのですが、詩の形は、さきほども申し上げましたとおり、固定化しつつあるように思っています。──とはいえ、ここは、単純に言い訳でしかなく、詩の形を問題にするのは、いわゆる詩の形以外でも「歌わせて」ほしい、という甘えもあるわけです。
これはつまるところ、詩も書くし、それ以外もやりますよ、ということに他ならず、ただの言い訳で、好きなことを、ただ好きなかたちでやります、という宣言でもあるのです。
そういう意味で、僕はもう「詩誌」は作らない。
「詩のないところに詩がある」という逆説を辿って、「詩のないところ」に行きたい。
「詩」のための「詩」でもなく。
5.結び
ただ、「出発のために出発する」(ボードレール)のが旅人であり、旅人はかえらない(西脇順三郎)わけですが、この「Ayuka」という旅が、どんな旅になるのか、ということだけはお知らせしておきたいと思いまして、このような長い文章を書いています。
詩や文学が好きな方に限らず、それこそ「詩のないところ」にいくことが目的ですので、さまざまな方とも交流できれば幸いです。また、詩が好きな方でも、少しでも共感してくださった方は、それぞれのアクションなどにぜひ、お気軽にリアクションをいただければと思います。
また、基本的には「ウェブマガジン」という体裁でやっていきますが、僕はやはり「物」が好きなので、ここでの連載をもとにしつつ「紙」の雑誌を年に1、2回作っていきます(希望的観測)。「文学フリマ」をはじめとしたイベントでお披露目できたらと思っています。
「うつつ」は生活のほとんどを僕から奪い去っていきます。その、小さな小さな「断片」のみが「詩」となります。今後、どれだけ続けていけるか、全然自信がありません。でも、ここに書いたことは、当面の僕のこころです。
それなりにコストもかかりますので、できましたら「応援」の意味をこめて、今後配信していく「記事」などを、ご購入も検討していただけましたら継続して活動していけますので、重ねて、どうぞよろしくお願いいたします。
2023年8月 佐々木蒼馬
Web Magazine「鮎歌 Ayuka」は紙媒体でも制作する予定です。コストもかかりますので、ぜひご支援・ご協力くださると幸いです。ここでのご支援は全額制作費用にあてさせていただきます。