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#13 小刀で削った鉛筆で書くように、詩を書く部屋

鉛筆を小刀で削り出す。

鉛筆削りはもちろん持っているが、なぜか小刀を取り出して削りたくなる。

不器用なのでなかなかきれいに削ることができない。不格好な鉛筆をなんとかそれらしく削ろうとする。鉛筆削りなら、ぐるぐるまわせばものの10秒もかからないことを、1分も2分もかけて削っていく。

しかし、細長く削った鉛筆の方が次に削るまでの間、少し長持ちする。細いと力加減を調節するようになるからだろうか。書き方や力の入れ方がふっと変わる瞬間がある。

なぜこんなことをしはじめたのか。

単純に時間に余裕ができたから、というだけではない気がする。

きっと、「手触り」のようなものがほしいのだと思う。

人に会わなくなってから何日が経っただろうか。あと何日、人に会わずに過ごすのだろうか。もちろん、Amazonやピザの配達員に挨拶することはあるが、それとはまた別だ。

会いたい人に会えないということ。ちょっと会いたくない人でも、ちょっと気をつかって何しゃべろうか考えたりすること。そういう感覚が大事だったのかもしれないと思う。すべてが遠い、という感覚が何かを失わせていく。

知り合いが、一昨日の夜だったか、電話をかけてきてくれて、ぼくは存外にしゃべった。ああ、なんだか、しゃべりたかったんだなあと気付いた。#6や#7で話した「実体」のなさというのは、かなり大きくこの生活のなかで人の息の吸い方を変えたのだと思う。

今日は取り組んでいる長編の詩ではなく、単体の詩を書こうと、少し言葉を出す儀式のようなことをした。

ぼくは美術館にいくと、気に入った展覧会の図録は買うようにしている。これが詩を書くときの素材になったりするからだ。言葉が出てこないときは、(というか基本的に出さないと出てくるものではない)こうして絵のイメージなどを書き出すことにしている。

今日は面倒になって、図録に直接書き込んでしまったが、他に誰がみるでもないのでいいかと思った。ある程度言葉が紡げてきたところで、紙にメモのようなものを書いていく。

そのときに思ったのだが、「現実」が変わりすぎている。描くべき「現実」が、これまでの「現実」と変わりすぎている。これまでの「現実」がもはやファンタジーのようで、人との関わりを描こうものなら、「対面」していること自体が不自然になる。

これは詩に限ったことではないと思う。まして「小説」などは登場人物などが互いに関係しなければはじまらないところがあるので、描き方がまったく変わってくるのではないか。

いま、創作の第一陣にいる人たちはどうなのだろう。かつての「日常」をベースに書いているのだろうか。でも、そこに何か変な感じがするのはきっと感じていると思う。新しい「日常」のことを、世界では「ニューノーマル」と呼び始めているらしい。それでも、あえてかつての「日常」を書く人々もいるし、連載で話の途中だったから書かざるを得ない人もいると思う。

今日は下書きのようなもの、素材のようなものを書いたけれども、この一篇の詩が、どんなかたちであらわれるのか、ぼくにもわからない。「ニューノーマル」の世界なのだろうか。どうなるのか、見てみたいような気はしているので、明日もまた取り組むだろう。ただ、一方で、完成させられるのかも自信はない。

しかし、「ニューノーマル」を語りつくすような、すべてのことをたった一篇で描き出すことはそもそもが不可能だ。あまり気負いすぎても、その一篇が逆に遠ざかるばかりだ。

細長く削り出した一本の鉛筆。

あまり力を入れると折れてしまう。

変容したかたちに合わせた力加減で、書けるように書いていくこと。

マガジン『部屋のなかの部屋』
このマガジンを書くようになってから、さまざまな方からコメントをいただくようになりました。まず、このような文章を毎日お読みくださってありがとうございます。読者が一人でもいると思うと書いた甲斐もあります。おそらく、似たような状況のなかで生きていますので、同じようなことを考えている方も多いと思います。ぜひ、その感覚に向き合っていきましょう。

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