銀座
誰にとっても特別なように、わたしにとっても特別で大事な街。
それが銀座。
わたしは世界を理解するのが遅い。
だから、銀座という街の特別性に気がついたのもそう早くはない。
○○○○○○
到着までにはまる渋滞。
その窓から見える皇居。
後部座席で寝て、起きるといつも森が見えた。
どんな田舎に来ちゃったんだろうと、ぼーっとする頭で考える。
のろのろと消えてゆく景色に映り込むお堀。
ああ、銀座か。
駐車場に車を停め、父は仕事へ向かう。
父が務める会社は当時銀座にあった。
土曜日も月に一度か二度は出勤していた。
わたしと母は、まだ歩行者天国も始まらない銀座をふらふらと歩いた。
TASAKIに立ちより、書店をまわり、伊東屋をのぞいた。
軽くてあたたかいコートを試着し、あんぱんの行列を眺めた。
そうこうするうちにお昼になり、和光の鐘が鳴る。
タバコの火をもみながら、父が帰ってくる。
土曜日は、午前中オフィスにいればいいだけ。
それでも解放された喜びを全身で表した彼はこう言う。
「いつき行こうか」
いつきは、お鮨屋さんだ。
父の職場の真向かい、さっぱりとしたビルに入った目立たないお店。
お昼によく世話になっているらしい。
父が引き戸を鳴らす。
大将がああどうも、という顔をする。
女将さんはカウンター席をセッティングする。
一番奥の席に通される。
シャリはまた少なめでいいか、それとも今日はチラシにするかと問われる。
一瞬考えて、握りがいいですと答える。
シャリはいつも通りで、と付け足す。
大将の握るお米は、美味しい。
わたしはお鮨が好きではなかった。
世界でいちばん美味しいのはグレープフルーツで、その次がチョコレート、三番目がうどん。
あとはマンゴーとかおせんべいとか凍らせたトマトとか、そういうのばっかり食べていた。
そんなわたしでも、いつきは別だとわかっていた。
いつきのお鮨は、特別だった。
お鮨なのにお鮨じゃなくて、だからお鮨だった。
笑っちゃうくらい山みたいに乗せてくれるガリ。
ひとめ見ただけで手のかかっていることがわかる。
赤身をほおばる。舌がほころぶ。
いくらをほおばる。海苔が香る。
炙られたサーモンをほおばる。一緒に溶けそう。
ケースの中のぜんぶが楽しそうにキラキラしていている。
父の頼んだ白子をつつく。
美味しいって肩をすくめて、大将に目で合図。
「ごちそうさまでした、美味しかったです」
「じゃあまた」
そうして私たちは立ち去る。
表通りに出たら右に歩く。
博品館を越えて、宮越屋珈琲に入る。
わたしはマンデリンを頼む。
いつか読んだ小説みたいに、わざと音を立ててスプーンを回す。
しばらくして、そろそろ帰ろうかとなる。
デルレイのマロングラッセをねだりそびれた、と思い出す。
もう少し長居をする日は、並木通りに戻ってチョコレートを飲む。
向かいのナチュラルローソンに入る人を見るともなく見る。
○○○○○○
最後に伺ったのは、もう5年も前。
はじめて親とでなく友達と予約した。
当たり前にいつもの席に通してくれた。
出国前に一度寄りたかったけれど、電話をしかけてやめた。
昔を知っている人に今を知られるのが怖くて。
今を壊してしまいたいほどに今が嫌いだったから。
帰ったら、真っ先に寄ろう。
覚えてくれてるかな、びっくりするかな。
女将さんの身体が悪いって聞いたけど、元気かな。
笑っちゃうくらい美味しいシャリ、またほおばらせてね。
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