人間
コロナで学校が閉鎖になって二週間。
オンライン授業が始まった。
正直あっぷあっぷしていたので、休みの間はのんびりと復習ができてよかった。
それでも久しぶりにクラスメイトや先生と話せて嬉しくなる。
Zoom越しではあるが、みんなの元気な姿が見られてよい。
コロナが終わっても週三日くらいはオンラインでいいなあと思う。
どこでも授業が受けられるというのは、電車に乗らなくて良いということだ。
いくらドイツの電車が空いているとはいえ、この快適さには敵わない。
電車に乗らない生活がこれほどよいものだとは。
わたしの公共交通機関嫌いは自覚していた以上だった。
そのほかの利点として、移動時間分寝ていられること、パジャマのままでいいということ、あたたかい紅茶をいつでも淹れられることなどがある。
それに、教材を持ち運ぶ必要もない。
普段は重くて持っていかない独独辞書も、参考書も、過去のプリントだって、全て手元にあるのだ。
なので、どこでも受けられるとはいえ、家以外で受けるつもりは今のところない。
たまには学校に通いたいのは、人間と対面で話すのも重要だと思うからである。
嫌でも他人と同じ部屋にいるというのは、社会性を育てることにもなる。
社会性のなさとは、言うなれば知ることの放棄である。
好意は知ることから始まるし、恐れや嫌悪感も知らないからこそ生じるのだ。
人生に起こりうる大抵のことは、知れば許せる。
みんなのことを教えてね。わたしのことも知ってね。
別に新たな友達なんてもういらないのでは、と18歳の頃は思っていたけれど、そんなこともなかった。
違う世界の人間と〜とか視野が広がる〜とかいう話ではない。
昔の友達とずっとずっと変わらぬ関係性を保つって難しいよね、超大親友〜というわけでない限り、いやそうであっても、友情が永遠に続くという確約などないし、友情に限らず、どんな人とも、人間は疎遠になり得るのだよ、だからいろんなところにたくさんの友達をちょこちょこ作っておかないと、寂しがりエンデはつらくなっちゃうよ、ということである。
依存体質な人間は、依存先を増やすことでなんとかバランスを保って生きられる。
とは!いえ!
いくら依存先を増やしても、安全基地がないと安心して生きられない。
安全基地とは、抽象的には「ここだけは何があっても絶対に大丈夫」と思える場所である。
たとえば実家に帰って落ち着く人はそれでいいのだろうが、わたしは実家にいるとどんどん衰弱してゆく。
だから、自分の手で別にこしらえるしかないのだ。
そこでわたしにとっての安全基地とは具体的にどんなものかと考えてみると、
ソフト面では
1. 人間がいる
ハード面では
2. 暑さ寒さと雨風がしのげる
というのが前提になってくる。
その上で、
1.1. その人間は簡単なことではいなくならない
1.2. その人間はわたしの領域(精神・経済・物理的)を侵さない
1.3. その人間はわたしより先に死んではならない
や
2.1. バスタブとWi-Fiがある
2.2. 緊急時には都市部から徒歩で帰宅可能
などが追加されてくる。
ハード面は、だいたいお金で解決できそうである。
わたしがそれだけ自分で働き稼げるのかというのは、疑いを挟む余地がある。
しかし、解決策は分かっている。
問題はソフトだ。
いくら1.2. などの条件を満たそうが、いなくなられては困る。
わたしにとって何よりも大切なことは、
「『一人になってしまう』という不安感から逃れること」
である。
わたしは一人っ子なので、親が死んだら一人なのだ。
完全に一人になってしまう、ということを最近よく考えている。
だからといって、その人間の意に反してそこに留めるのは、本意ではない。
留まってほしいと思える人間に、留まっていたいと思って留まってもらえなければ意味がないのだ。
とはいえ人間、留まりたくない!となることも想像に容易い。
そう思ったときに正直に話し合え、妥協点を探し合えなければならない。
そのためには
「話し合おうとすれば相手も応じてくれる」
「私たちは折り合いをつけられる」
と互いに認識し合うことが必要になる。
その信頼関係を構築するには、つまるところ、小さな会話の積み重ねが大きな役割を演じるのではないだろうか。
他愛もないことにも反応してもらえるという安心から、会話ができると信じられ、対話もしてみようかと踏み出せるのだ。
普段から声を聞くことのない相手に問題提起をするというのは、いささか憚られる。
それらは相手に要求するのではなく、自ら実践できなければならない。
相手の問題提起に耳をかたむけ、折衷案を出そうと骨を折ることを厭わなくなれたらよい。
他人のモヤモヤに巻き込まれる覚悟を持てるようになったら、すごくいい。
とはいえ、いくらその人間と信頼しあえたとしても、自分と相手の感覚や感情だけに関係性を委ねるのは、心許ない。
人間、すぐにいなくなるから。
もとい、わたしはすぐに逃げるから。
互いの間にある見えないモノ以外にも何か縛るものがあれば、
「あ〜いなくなっちゃお!」
という軽いテンションでいなくなることは不可能で、
「いなくなるのめんどいな〜」
とダラダラしている間に何となくスモールトークが生じ、なんとなく言葉が交わされ、互いに向き合うことができそうである。
その縛るものとは、小学生なら親かもしれないし、中高生であればクラスメイトの目かもしれない。
大人になったらそれらの効力は薄れるので、契約あるいは公権力に頼るしかなさそうである。
そこで結婚である。
結婚の圧はしんどすぎて考えたくないけれど、安全基地だと考えたら対峙せねばならない。
結婚に子どもはつきものである。
なんでだよ、と思う。
好きの気持ちと、子どもが欲しい気持ちは別物じゃん。
とはいえ、世の中そういうことになっているらしい。暫定的に。
わたしは自分の子どもが欲しいと思えない。
そう思えるようになったらいいねとは思うけれど、今は恐ろしくて想像できない。
だから「絶対に子どもが欲しい」タイプの人間とは基地を作れなさそうだと思う。
相手が他から子を連れてくる、あるいは自分自身で身籠もるのであれば、あるいは。
幸いにして、近年中には世界の多くの都市で同性婚も認められそうである。
とはいえ、わたしがめちゃくちゃめちゃくちゃ自分の子を欲しくなる可能性だって、ゼロではないのだ。
そのときに、相手が「絶対に子どもは欲しくない」タイプだったら困ってしまう。
対話でどうにかできたらいいけれど、できないことだって、じゅうぶんに考えられる。
「子どもが欲しくない」という気持ちがどれだけのものか、わたしは知ってるから、無理強いなんてできない。
そのときわたしはどうなるか。
1. 子どもを欲しいと願うにも関わらず、
2. 信頼した人間を手放し(あるいは手放され)、
3. 安全基地すらも失う。
しかも、そのときわたしが欲しいと思う子とは、往々にして【「子どもが欲しくない」と言う相手の】であろう。
また、そのときわたしが失う人間というのも、往々にして【「この人の子どもなら欲しい」と思えるほどまでに信頼した相手】なのだ。
最悪のシナリオだ。破滅だ。
そうなったらきっとわたしは、世の中に大ダメージを与える何かを企てる。
自分も一緒に死ねればまだいいけれど(よくない)、死ねないことだってある。
過去の実績から鑑みるに、わたしは自分で死ぬことはできなさそうだ。
子どもの話に戻る。
つまり、わたしの安全基地にいる人間とは、少なくとも現時点では
「子どもはいてもいなくても、どっちでもいいかな」
という考えでなくてはいけない。
もう少し欲を出すと
「エンデちゃんの子なら絶対絶対いい子だし可愛いじゃん。産まれたら超可愛がるし、妊娠中は僕/私も一緒に食事制限つきあうよ。でも僕/私はエンデちゃんと過ごすのすごく楽しいし、やっぱり子どもはいてもいなくてもいいかな!」
くらいに言ってもらえないと困る。
そう、困る。
それくらい言ってもらえないとわたしは安心できないのだ。
まとめると、わたしが安心するためには
1. 安全基地のハード面をクリアできるだけのお金を稼ぐこと
2. ある人間と、いつでも対話ができると思えるだけの信頼関係を築くこと
3. その人間と結婚すること
4. 「エンデちゃんの子なら絶対絶対いい子だし可愛いじゃん。産まれたら超可愛がるし、妊娠中は僕/私も一緒に食事制限つきあうよ。でも僕/私はエンデちゃんと過ごすのすごく楽しいし、やっぱり子どもはいてもいなくてもいいかな!」と言ってもらえること
5. そう言ってもらえる人間になること
が必要である。
安心がこんなにも困難だとは。
人類、どうやって安心を手に入れてるの。
もしかして、みんな安心なんてしてないのかな。
こういうことを書くと結婚したがって焦っているみたいで嫌なのだけれど、世間体や社会の圧などあらゆることを差し引いてもわたしは結婚がしたくなったのかも知れないと思う。
自分の人生に他人を巻き込むことや、逃げ出せない人間関係を構築するのは、やっぱり怖い。
それに、まだ数年はのびのび暮らしたい。
それでも、ぶつかることを恐れて投げ出すのは卒業せねばならない。
数年後を見据え、時間をかけて、諦めずに人間と向き合えるようになれたらよい。
28歳。
やりたいことはまだあるし、行きたいところも枚挙に暇がない。
人生をサボっていたリバウンドである。
長い長いギャップイヤー"ズ"が終わりつつあるのかもしれない。
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