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小説「CRIMSON GIRL YUGURE」

   *


 みんな夕暮れみたいに鈍ければいい。
 もうまもなく夜も近づく鈍色の時間。
 あたしはわざと校門を一度出て、また入った。
 あたしは正門と縁がない。裏門から登校する日陰者の女生徒。
 裏門の生徒は墓場の脇を通らなくちゃいけない。だからあたしは墓の子。
 ほら、墓の子が登校しますよ、なんて。
 うん、論理もなにもないよ。
 こまかいこと抜きにして、みんな鈍くなっちゃえ。
 あ。すらー、っとした感じの風。とあたし。
 と関係ない部活動の青春の声。
 すらー。

   *


 あたしともがは平成○○年○○月○○日の火曜日に出会った。それでその日につべこべした。
 もし仮に毎週火曜日につべこべをしていたら、それがはたして一体なん回目のつべこべだったか逆算できる。なのに、それができないのはもちろん別の曜日でもそういうつべこべがあったわけで。もはやあたしたちがなん度つべこべしあったのか――計る術はない。すべを術って書くのにいっつも納得がいかない。すべ。くすんできた二十センチ定規じゃとてもとても、つべこべした回数を計測なんてできない。あたしも知らないし、もがも知らないし、誰も知らない。
 でも神様だったらそういうこと教えてくれてもいい気がする。中学生のとき、親戚の兄さんが「神は髪の毛の本数までお知りになる」ってギターをくどくど弾きながら言ってたことを思い出してみる。くだらない記憶だから、すぐにお兄さんの顔に唾吐きかけてその顔を思いっきり蹴とばしてやる。制服のスカートそのままで。下は紺パン履いたままでお色気はないし、そもそもお色気なんていらない。お兄さんは笑いながら、窓ガラス割って階下へ落ちて血まみれた。ガロ的作風の一ページ漫画的妄想。
 神様っていつまで髪の毛の本数数えているの? 髪の毛が落ち生えてくるその境界をカウントしつづける無駄な神様も蹴り飛ばしてやりたい。あたしはイメトレで高々と回し蹴りしてみる。でもともかくつべこべの回数は聞いてみたい。蹴り飛ばすのはそれからでも遅くない。

 そんなことを考えてたらユキちゃんが可愛い声で歌ってるのに合わせて軽くいった。シネヲの「雨上がりの魔法」を聴きたくなった。銀杏ボーイズの「あの娘は綾波レイが好き」も悪くない。スマホに落としてたっけな? それかユーチューブにあるかな? あ、もがが満足して笑ってる。うんうん。

 今日は木曜日で、もががカレーを作るというので一緒に食べてこうと思ってて。だからいっぱいだらだら漫画を読んで、少しだけつべこべした。恥ずかしさとかじゃなくて、今日はほんとにちょっとだけ。もがは漫画の新刊を五冊抱えていたし、あたしはもがの〈マンガの塔〉から好きな漫画を選んで読んでる。今日は前から目をつけてた『あきら翔ぶ!!』を読んでみる。スポーツ漫画がマイブーム。昨日は『A・O・N』を読んで、一週間前は『ルーキーズ』を読んでた。次は刃牙シリーズを読破したいな。刃牙がスポーツ漫画ではないというツッコミはさておいて、あたしはともかく男性の肉体と意地がぶつかり合う、そーゆーバチバチが読みたいので。あ、『バチバチ』も『火ノ丸相撲』はどっちも面白かったなー。でも、あきらと帆足君の関係もたまらなく好きだ。漫画ははてしない時間をつぶせて楽しい。
「ねえ、刃牙シリーズって揃ってる?」
 あたしはカレールーをたっぷりからめた香ばしいシャウエッセンをかじる。アルトバイエルンかも知れない。ルーは地中海カリーをベースにインドカリーの粉末を足してるから、辛さが引き締まっていい感じ。もがの食事はけっこう美味しい。
「あるよ。ちゃんと『グラップラー刃牙』から読むのがオススメだよ、ありす」って応えるもが。
 そんな彼女の長いスカートへと、白い靴下をまとわせた右足で侵入してゆく。もがも負けじと紺の靴下履いた左足を這わせてくる。ちょっと笑ってちょっと気持ちわるい。けど、ちょっと甘い感じもした。カレーは変わらずに辛めだった。うちでも使ってるデュラレックスのゴツいコップに注がれたお水が美味しかった。あ、ちょっといい。

   *


 あたしの入学と同時に新調された学校の下駄箱。ピカピカだったそれも、くされ男子が日々蹴りを加えてくおかげで、ところどころその無機質さに味を加えてる。くすんでるのはあたしと一緒だな。あたしは蹴られたりしないけど。
 あたしは夕暮れに登校しなおしてる。ローファーと中靴を履き替えて。
 もうそろそろ下校のチャイムが鳴るころかな。帰れって? うるさい。
 そんなのまやかしなんだから。
 ほら、部活動の子はいるし、図書室にも物好きが隠れて本を読んでたりする。
 あたしもまぎれてく。浮くけどそれでもまぎれてく。

   *


 あたしたちは平成○○年○○月○○日の火曜日に出会った。
 という記述が嘘かどうかは国語の先生に添削してもらえない。
 国語の先生はあたしともがの関係を知らないから。
 あたしたちはお互い顔は知っていた。(後々確認したことだけど)なんとなく共感するなー、って感じあってたのは、あたしらがかるーく透明みたいな存在だってことなんだろな。なんだろ、なんだろな……なんていうか、いてもいじめられたりはしないけど、いなくてもクラスの輪が乱れたりしないし円滑に行事や勉強や進路とか、あと青春や恋とかも過ぎ去ってって卒業までいくんだろうってこと。つまりはぼっちなとこ似てるな、って思ってた。国語の教科書に出てた誰かの小説、路傍の石、っていう作品名にもがはラインマーカーを引いてて、アイロニカルだなって思ってた。あたしもおんなじ色でマーカーを引いた。
 マーカーで色をつけたのって……うーん、ようは出会ってからだから、もうちょっと前の話をしよう。あたしはその日もなんてことなく授業にきちんと出て、なにも気にしないで下校した。ただまっすぐ帰るんじゃなくて、お使いがあったんだ。そう、兄さんからCDを買ってくるようにお願いされてた。これは親戚の兄さんじゃなくって、年の離れた実の兄さん。もう社会人でお金はあるけど彼女と時間がない兄さん。なんとかってアーティスト(あたしは全然興味ない)結成何年記念だかのアルバムをいち早く聴きたいからって、五百円のお駄賃であたしは引き受けて、お使いのため寄ることにしてた。音楽なんてユーチューブで聴けばいいのに、って思うけど、なんか兄さんは物がそこにあるのが嬉しいみたい。もがもそのタイプみたい。あたしは音楽も漫画もインターネットで手に入るていどのものでいい。たくさんあるならその方がいいけど。
 複合スーパーマーケットの二階で、それを難なく入手して(というかお兄ちゃんはお店取り置きにしてた)、暇つぶしに併設されてる本屋をぶらついた。本屋さんもブックオフもコンビニも立ち読みに厳しい。漫画には薄いカサカサがラッピングされてて、なにも楽しくない。でもなんとなく気になる漫画を手に取って表紙と裏表紙をくるくる眺めてみる。そのときに不意っともがが声をかけてきた。「その漫画なら私の家にあるよ」って。
 もがは出席番号十七番の男子・山田から言わせるに〈骨ガール〉だそうだ。いやに背だけ高くて肉が薄い――骨格が丸見えで貧相な身体の女の子、もが。ついでにあたしだって出席番号七番の男子・澤嶋が評価するに〈不似合ガール〉。ありすという名前に不似合な三白眼の眉間に皺寄せたデブサイク女だって。あたしはそれを否定はしない。もがは確かに貧相な身体とやつれた表情だし、あたしはありすという名前にわりと絶望してる。でも納得することと怒りを鞘に納めることとは話が違う。とりあえず妄想において山田は銃殺刑にされて、澤嶋はいちゃもんつけられたヤンキーに顔の形が分からなくなるほどぼっこぼこにされてる。笑。でも妄想が記憶に変わったら、きっとお葬式に行かなきゃならないから、妄想は妄想のまんまであってほしい。
 ようはあたしたち、キレイじゃない。だから、なんだ。くたばれ、学校社会。山田と澤嶋だって、大した顔じゃない。例えるなら山田は『ドロヘドロ』の藤田だし、澤嶋はラーメン大好き小池さんなんだから。

 そんな骨ガールに連れられて、いそいそ彼女のお部屋へとご招待された。漫画を読む前にあたしたちはなんだかつべこべしてみようと思って、つべこべもしてみた。もがはそんなつもりであたしを誘ったのがなんとなく分かってた。家に向かう途中に不意に握られた手をあたしは振り払った。けど、それに懲りず部屋で告白してきたもがをあたしは「なんか良いな」って思った。し、そんなイキオイでつべこべしちゃうのもかなり悪くなかった。でも一人でしてる時とは違う興奮だなってのは感じてたし、それは今も変わらない。
 不似合ガールのあたしに、骨ガールのもがは不思議と惹かれてたらしい。
「同じような境遇だけど、ありすさんはなんかびくびくしてないっていうか、私みたいにオタクじゃないし、なんか……いいなって」
 行動力と奥ゆかしさがちぐはぐな子だな、とは思ったけど、まあ漫画読めるし、つべこべするのもいい感じだし。あたしともがはそんな感じで出会った。とりあえずその日は『タトゥー・ハーツ』とか『外天楼』とか『あなたこなた』とか短い漫画をがつがつ読んで、帰りに『ねじまきカギュー』を5冊借りて、軽い口づけで家を出た。次の日にはそれを読破してた。カギューたん最高。

   *


 保健室とお手洗いと資料室と教員室と3年生用の昇降口を抜けて美術準備室と美術室を過ぎて、渡り廊下手前の階段を上がって、踊り場で身体を反転させて残りの段をゆっくり上がって二階に向かう。
 それからまた廊下を踏みしめるみたいに登校してゆく。
 夕暮の陽射しは立ち止まればあたしの身体をそれなりに温めるんだろう。
 でももうあたしは冷え切っている。

   *


 もがは漫画に狂ってた。あたしはそれなりに読んできたつもりだったけど、そんなのはおっきな間違いだった。
「もがはどんな漫画が好きなの?」
「なんでも大好き」
「中でも好きなのって?」
「んー、聖書みたいに尊い漫画は萩尾望都先生の『トーマの心臓』。あの本棚の上から二段目に入ってる。初期作品集『ルルとミミ』も全部いいけど特に「ルルとミミ」と「ポーチで少女が子犬と」が私は大好き。それから水木しげる先生のちくま文庫版『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ全7巻は昔お父さんにねだって買ってもらったのが今でも大切にとってあるし、最近ではまつ先生の迷宮ミステリ『めじろおおきに』の解決編が始まって……あっ展開の熱さでいえば佐伯俊先生の『食戟のソーマ』も大好きだな。あと奥浩哉先生の『いぬやしき』を読み終わったから、『変』と『ガンツ』を一気に読み直しして、あとモリタイシ先生『いでじゅう』も古川古河先生の『マグロちゃん、こっち向いて』もエロくて可愛くって好きかなー。あ、もちろん昔の漫画とかアヴァンギャルド? って言っていいのかな? そういうのも尊敬してるよ。池上遼一先生版『スパイダーマン』はめっちゃクールで、つげ義春先生の「ねじ式」ももちろんだけど、私はやっぱり「紅い花」は珠玉だなって思ってるし。それからもう芸術みたいな域なんだけど、カネコアツシ先生の『SOIL』は最高に加速し続けるサスペンス漫画だし、町田ひらく先生は衿沢世衣子先生とも並列して語られてもいいかなーってなんとなく思うし。あ、でも衿沢先生はちょっと芸術とは違うかも。あー、芸術的って言えば逆柱いみり先生の作品群は絶対に外せない。アックスだと後藤友先生の『正義隊』は私の机棚に置いてあるからぜひぜひ読んでー。今度クローゼットから出しとくけどコミティアとかで売ってる所謂素人さんの漫画も読むよー。スプリンクラー鈴木先生の『スラップステック・ラストポエム』シリーズはほんと泣けるし、清水ニューロン先生の『ありふれた表現』とかネルノダイスキ先生の漫画はほんといいんだよねー。あとあと、クラガリ先生とか、あー、なんか今あれ読みたいって気になってきた。私の後に読ませてあげるよ、丘野安子先生ってベテランのアマチュア漫画家さんの『青い赤』ってすごいよー、もう十冊も出てて、あれは別室に置いてあるから。……あれ、何の質問だっけこれ」
「いや、なんでもない」
 あたしたちはずっとうちに籠ってばかりだった。外にはあたしたちを無視しながらひそひそ話で囃そうとする感じが伝わってくるからだった。いや路傍の石だから気にしすぎかも知れないけど。でも石同士が漫画読みまくってたりつべこべしてる、って知ったらやっぱり囃すだろうな。あたしの家とは違ってもがの家は両親の帰りが昔っから遅くってだからってお金ばっかり与えられてて、つまりあたしに毎月与えられてる小遣いとは桁が違った。こんなに漫画が読める環境なんてすごいと思った。インターネット環境ももがは漫画情報の収集のためだけに使ってた。あたしは人並みにユーチューブの無断転載のアニメとかバラエティーとかを見てた。

「あたし漫画村で漫画読む人は絶対に許さない」
「ふーん。やっぱり違法だから」
 寝そべって『坂道のアポロン』を読んでるあたしに身体をくっつけてきたもがが言ってる言葉をやりすごす。
「でも今はみんながみんな、漫画村で漫画を読んでる。まるでユートピアみたいに」
「ニュースにもなってる」
「ネットニュース?」
「うん」
 でも、あたしだってお金がないからこんな環境がなくって、読みたい漫画がスマホを通して無料で読めるんだったら読んでしまうかもしれない。いや、過去形って嘘。あたしも読んだことある。あたしは以前、漫画村の住人でそこでは少女漫画とか、えっと、あれ『となりの怪物くん』とか『ののはらくんのはらののはら』とか読んでて、えっとそう兄貴がそもそも漫画村の住人で、それをあたしが兄貴が無防備に放置したスマホで盗み見て、あたしも入村したんだった。あそこで読んだ『空が灰色だから』は私を眠れなくさせたし、『ギャグマンガ日和』はあたしの腹筋を壊したし。
 もがが求めてる。あたしはしぶしぶ『坂道のアポロン』を閉じた。
『坂道のアポロン』につべこべが似合わないのに、もがはそんなこと関係ない。あーあ、あんなエロい漫画読んでるから悪いんだ。あれ成年コミックじゃん。

 夕暮れて、薄暗くなってきた部屋で必死に舌を回してるもがの顔は影で黒くなってわけもなく不気味だった。中山昌亮作品というよりいがらしみきお作品の不気味さだなって思った。なんだか全身へのつべこべした熱心な愛情表現があたしへの身体検査みたいに思えてきた。漫画村の住人じゃないか否かをはかる計測器具としての舌があたしの肌に這いずり回ってる。じわーとした気分がして、いったふりした。お返しに惰性でいかせてあげたら満足したみたい。
 まだ来てないのになんだか憂鬱で気だるさがじわじわ押し寄せてきてる。もう『坂道のアポロン』を読む気分じゃなくなってひたすら、『ディスコミュニケーション』ってやたら分厚い漫画を読んでたけどあんまり頭に入ってこなかった。

 夜が近づいた帰り道、突然なにやってんだろうって泣きたくなった。のに、さかりのついた猫が高い空に向かって鳴いてるからあたしはうまく泣けなかった。小さくにゃぉーんって鳴いてみてもなんか違った。あ、また鳴き声。と風。

   *


 三階から屋上へ上がっていかない。あたしの学校は屋上への出入りを禁止してるし、天文部が特別な許可を得る場合以外屋上は開放されない。らしい。自殺防止もあるんだろうけど、あまちゃんだなって思ってる。だって、三階のほら、あんまり使われてないこの階段の窓は誰にだって開けられるんだよ。あー、夕日がまぶしくって色んなものが真っ黒。あーあ、なんでこんな気分なんだかよく分からないんだよなー。いじめられてるわけでもない。でも友達がいないからそういうのこじつけちゃってもいいかなって思うんだ。けどなー。
 なんとなく窓の外を見てると、学校の外の細い路で一人の男がじっとこちらを見てた。そんなに制服が不似合いなあたしが珍しいんだろうか。あたしを見てるように思えるけど目があってる感じはしない。なんだろ、あんな人があんな風に生きてるんならあたしもこんな風に生きててもいいのかな、っても思うけど、なんだか――。

 空からおっきな黒いものが降ってきて。に。
 あたし驚いて。にぶ。
 どっか間違っちゃったかな。にぶい。
 って思う間もなくって。鈍い黒。

   *


 もがが頑張りだすって言うけど、あたしはそんな気が全然なかったから、どうすればいいのかよく分からなかった。彼女はインドア派をやめて急に働きだした。つまりアルバイト。週三日の本屋さんでの品出しやレジ打ちを始めるって言いだした。
「なんで?」ってあたしは聞こうかなと思ったけど『ゴールデンカムイ』が面白すぎて、黙ってた。ら、もがが勝手に話し始めた。でも『ゴールデンカムイ』が面白すぎた。
「ありす。私はまた漫画描こうと思う」
「私ね、漫研の幽霊部員だったって話したでしょ。きちんと部長さんに話をして戻ろうと思うの。漫画がやっぱり大好きで、大好きすぎて、やっぱり自分でも書いてみたくって。イラストとかだけじゃなくってね。あのあの、それでバイトとどう繋がるのかっていうとね」
「ありすと一緒にいて思ったの。なんか色んなことは経験なんだって。私、ありすのお陰で今なんだかとっても漫画が描きたいの。今度の週末、一緒に新宿まで出て世界堂に行ってくれない?」
『ゴールデンカムイ』が面白すぎて、あたしは「ごめん、週末は家族で出かけなきゃ」ってクソみたいな嘘をついちゃって、もがは気づかないふりして「そっか」って少し声の調子を落としたみたいだった。
「私ね」ってもがは諦めないで続けてる。
「ありすとの経験を漫画にしたいの。あ、えっちな奴とかそうゆうのじゃなくって。これから一杯出かけたりとか遊んだりとか今までみたいに部屋で漫画読みまくったりしながら、そんな経験を元にフィクションが描ける気がするの」
 あたしたちはきっと美化される。もがのイラストの感じみる限り、可愛くしちゃうんだろうな。バカみたいだな。
「ずっとずっと一緒にいよう、ねえ。ありす」って言いながら、あたしの肩越しに『ゴールデンカムイ』を覗きこもうとするもがに見せたくないみたいに漫画を閉じてしまう。
「もが?」
「なあに?」
「ごめん、今日言えなかったんだけど、なんだか具合が悪くってさ。ちょっと今日は、ごめん。早く帰るね」
 もがはきょとんとしてたけど、うんって頷いて手を握ってくれた。あったかいその手が恐ろしい。あたしの手は冷え切ってた。

 帰り道、なんて漫画だったか忘れちゃったけど、だめな主人公の真似をしてなにかから逃げ出すように小走りに「みんなみんなぶっこわれちゃえ」って呟いた。なんの漫画だったっけ? マンガじゃなくって本心だっけ? まんがってどこで読んでも面白いっけ?
 久しぶりにアクセスした漫画村で漫画を読んでみる。『ゴールデンカムイ』の続きを読んでみる。面白くってあたしは深夜までずっと読み続ける。漫画はどこでどう読んだって面白いんだ。なんかスーと冷えた感じがした。
 もがは寂しそうにしたけど、あたしはもうもがに関わらなくなった。どうしてそうなっちゃったかな? もがが活発になるのがそんなにイヤ? 漫画研究会で友達ができるもががヤダ? 離れちゃうのがイヤ? 漫画を描き始める彼女の隣であたしは何する? ずっと漫画読むの? 時折のつべこべに付き合って? トーン貼りとかやっちゃう? それとも? 何もせずにいるの? 漫画村の住人という罪悪感があるのかな? その罪をもがは知ってるの? もがはあたしを軽蔑する? 勝手につべこべして漫画を読むだけのあたし? ってなに? もがが付き合って、って言ったようなもので。あたしそこに甘えてる? なにかやり始めるのが怖い? なにかやりたいことって、あたし、ある? ない。もがのやりたいことを応援したい? え? 分かんない分かんない分かんない分かんない分かんない。え? ウソ、漫画的に分かんない、そんなことも分かんない? え、そもそも、もが。彼女のこと、あたし好きなのかな? 好き? なんも。分からないや。
 彼女の孤独が好きなだけだった? 気分が秋風みたいにすらーとした雰囲気になればいいな。と思ってるのに、ずっと錆びた気持ちが胸の奥にたまってて。あたしだけが夕暮れみたいに鈍い。
 秋はもう寂しい冬を待つばかりだった。っていう終わりの漫画はトヨタ・キャロルの『白羊宮』だ。あれは漫画村にあるかな?

   *

 屋上からなにかが降ってきた。夕陽に逆光してよく見えない真っ黒ななにか。落ちていった先はもう薄暗くってなんにも分からなかった。身を乗り出してみる。するとあたしと男は今度こそバッチリ目が合った。そいつは兄さんがたまに飲んでる缶ビールと同じ銘柄を口元に寄せてた。知ってる銘柄だ、アサヒスーパードライ500mlだ。缶がこんな夕焼けの中でもたしかにギラっと光ってる。誰か飛んだ? あたしの前に、下に誰か――男性教師みたいな誰かが近づいていくのと女生徒の叫び声がうるさく聞こえてきた。だんだん目が慣れてきて下でいろんな人がうぞうぞしてるのを感じられるようになった。あたしは身を乗り出してる。あれは化学教師の倉田だ。倉田があたしをにらんで「なに見てる!」って言った。誰かクソ男子がフラッシュを焚いてあたしを撮影した。そいつは落ちたなにかも撮影した。倉田が「やめろ! ここに誰も来るな」と怒声をあげたり「だれか下関先生を呼んで!」と騒ぎながらスマホをいじってる様子が見えた。下にいるのは誰? 屋上なんて漫画みたいな光景を選んで飛んだのは。
 あたしは目線を移して、また視線をその男と交わした。
 男は目でなにか言ってるようだった。メガネのふちがギラっと光った。あの酩酊してる目の据わった男の表情。その黒い影に縁どられた顔が夕焼けに馴染んだあたしの三白眼にはきっちりかっちり見える気がした。
 あたしはずっと男を睨んでた。
 なにか挑むように目で物を言ってる男も視線を逸らさなかった。
 アサヒスーパードライが光っていた。
 下が騒々しい。
 さわやかな秋風だけが不似合いだった。
 あたしはもっと。
 きれいに飛べる。
 かも知れない。
 誰かここに来る前に。
 夕焼けがあたしの感覚を鈍くして。
 鈍色のあたし。

 あたしは夕焼けに包まれてる錯覚に陥った。

 (少女は登校しなおして飛んだ)

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