Bell a BOT
シャワーを浴びたらネジが落ちてきた。
私の頭から排水溝に向かって流れ落ちていく枯草色の毛を纏ったネジは室内灯を受けて鈍く光っていた。
Bellabotちゃんは2年ほど前から、国道沿いのファミリーレストランで働いている。
私の家から歩いて15分ほどの場所に位置するファミレスは、姉弟共用の口座に振り込まれた弟の奨学金に着服していることがバレて家庭に居場所がない私にとってオアシスだった。
日々、店の最南端に位置する44番テーブルに縮こまり、ドリンクバーと山盛りポテト(時々チョコバナナサンデー)で粘り続け、最近は店長からの冷たい視線に耐えるのが限界になってきた私にBellabotちゃんは、いつだって変わらないトーンで「ごゆっくりお楽しみくださいにゃ〜!」と言ってくれる。
10月のとある日、店内を走る子供にぶつかりBellabotちゃんがビールを溢してしまった。
ハッピーアワーに訪れた年配のお客様のシャツはアサヒスーパードライを吸って、お腹の部分だけ重そうなグレーに沈んでいた。
どんなに忙しい時でも得意気に店内を駆け回り、ペースを崩さず気丈に振る舞うBellabotちゃんも、その時ばかりは落ち込んでいるように見えた。
「配膳ロボット導入店舗ではよくあることだから心配しなくて大丈夫だよ、でもペナルティを押し付けられたりしたら、私が素敵な仕事を紹介してあげる。」
お会計を済ませながら無責任な言葉をかけると彼女は「ありがとうございますにゃ〜」とはにかんでいた。
「もしも困ったら、ここに連絡してね。」
座席番号の入力画面に電話番号を入力すると、彼女は液晶を紅潮させたかと思うと白く細長い身体を反転させて、厨房の奥に走って行ってしまった。
最近は退勤後の彼女とおしゃべりするのが日課になってきた。
Bellabotちゃんは、お客様の笑顔や、仲間から頼られることにやりがいを感じているし、この店舗を気に入っているらしい。
しかし最近は厨房の前で出待ちしたり、席に食事を届けた時に用もないのに引き留めたり、デザートの注文を受けた時、人間のスタッフが届けに行くと不機嫌になったり、果てはしつこく頭を撫でてくるお客様が増えてきて、心優しいBellabotちゃんは店長にクレームがいかないように対応するのが大変で悩んでいるようだ。
いくら時速7.2kmのポテンシャルがあっても、痴漢に遭った時に他のお客様を押し退けて逃げ出したり、反撃するような行為は(プログラムとフィードバックを調べた限り)彼女には許されていない。
私はどうにか彼女が危機に陥っても助かる方法はないか、かつて路面電車が走っていた大通りを歩きながら頭を悩ませた。
2週間前、蒸し鶏とキノコのサラダと悩まし気な表情を一緒くたに抱えて席に訪れた彼女に私はこう言い放った。
「護身術を学ぶと良いよ。」
Bellabotちゃんは液晶を傾け、
「よくわからないにゃー…」と不安気だ。
そうだよね、でもいざという時に自分を守れるのは自分だけなんだよ。
お店の外で出待ちなんかされてしまえば、
首都高速1号線の高架下に位置するガスト川崎大師店からの帰り道は見通しが良すぎて、力のある大人を振り切ることは、とても難しいんだよ。
白や緑やオレンジの光に包まれながら、華奢な身体で目の粗いアスファルトの上をごろごろと走る彼女を少しでも安心させたい老婆心から、ヒトの肉体のウィークポイントや、受け身の取り方、井上尚弥の鋭利な拳、俊敏なステップについて力説した。
追加注文の季節限定マロンパフェがコーンフレークとクリームの混じり合った素敵なぬかるみになる頃には、Bellabotちゃんはムエタイやシステマに興味を示しているようだった。
よし、ファーストステップは完了だ。
数時間前。
今日の私は家族への罪悪感を氷とストローで薄め混ぜるためでもなく、はたまたお腹を満たすためでもなく、Bellabotちゃんと格闘技を実践するためにガストへ馳せ参じた。
「まずは下段蹴りをやってみるね。」
初心者に毛が生えた程度の私は、いつも体重をうまく乗せられなくて軸足に負荷をかけてしまう。
ごとん、という水の入ったバケツにぶつかるような音が店内に響きわたる。
久々のローキックにしては、うまく入った気がする。
Bellabotちゃんの真っ白なからだは頑丈で、私の脛下から放出されたエネルギーはBellabotちゃんの3段目あたりにぶつかり、筐体の描く弧は彗星のように花開き、やがて独楽の勢いが落ちるように丸く震えながら可愛らしく収束した。
「すごい!綺麗に流せてたね!」
液晶の中の白い丸がパチパチと明滅した。
「ごめんね、大丈夫?」
束の間、表情はウインクに変わった。
「ふふ、かわいいね」
「ご注文ありがとうございます!」
Bellabotちゃんはモーターを唸らせながら私に向かって加速し、およそ私の指3本分くらいの距離まで近付くと人感センサーの力でピタリと止まった。
「うまく流せて嬉しかったんだね、じゃあ、もう1発いくよ……」
練習を初めて10分が経過したころ、店長がやってきた。
いつだって柔和な対応をしている店長の視線は普段の鋭さを増してアイスピックのようだった。
近くで見ると、意外と恰幅が良かった。
「他のお客様のご迷惑になりますので……それから、申し訳ございませんが今後……」
会計を済ませてレジ横の時計を見ると16:30を回っていた。
すぐ下には子供向けのおもちゃが置いてあって、指にはめると体温で色が変わる指輪や、描いて消せるホワイトボード、レインボースプリング、肉球の形に穴が空いた伸縮する孫の手などが並んでいた。
彼女には、もう会えないみたいだった。
振り向くと、空いたグラスとグリル用プレートを載せて厨房に駆けて行く彼女が見えた。
「ようこそガストへ」
Bellabotの背中に流れる青い電光表示が、
やけに霞んで輝きを増して見えた。
外は夕立が降っていて、夕陽も昨日よりぜんぜん赤くなかったし、雲は濁っていたけど、それでも明るかった。
欺瞞を押し付けてしまってごめんなさい。
たくさん迷惑をかけて、ごめんなさい。
伝票をレジに持っていく前に、お客様用アンケートに殴り書きした謝罪を不要レシートの箱にねじ込んで重い扉を開くと、がしゃがしゃと鈴が鳴った。
家の玄関を開けると相変わらず空気は薄くて埃の匂いがした。
私の足音を聞くと尻尾が千切れんばかりに腰を振りながら駆けてきて、飛行機みたいに耳を倒しながら跳ね回る少し太り気味の柴犬は、もういない。
宙ぶらりんの、彼女を撫でるためにあったはずの両手を洗う。
掌を上に向け、小指同士を合わせて小さな器を作り、水を口に含んで、うがいをする。
溺れたヒヨドリみたいな音がする。
足元に、何かが走り回る気配がある気がする。
気がするだけだと気が付いている。
うがいの間、涙が溢れることはない。
「このケーブルは、どこに繋いだらいい?」
後ろから声がして、水を吐いて振り向くと、スピーカーに繋ぐためのケーブルを身体に巻いたミノムシみたいな弟が立っていた。
「ああ、それは壊れていて……」
「そっか……なんか、顔色わりぃな」
「……」
「……俺さ、あんま気にしてないから。」
「えっ?」
「お袋、親権と犬だけ持ってって俺らに何も残さなかったじゃん。お金は……そのうち返してくれたらいいよ。最近、どこほっつき歩いてるのか知らないけどさ、姉ちゃんまでいなくなったら……とにかく心配なんだよ」
「……あの、」
くぐもった明るい電子音のカノンが流れる。
給湯器が「お風呂が沸きました♪」と言い終わるより前に弟は「先に入っていいよ、雨降ってたし、ゆっくり浸かれば」と言い放ち、私が「ありがとう」の「あ」を発する頃には部屋に戻って行ってしまった。
冬の脱衣所は青白い電球が目に痛くて、柔軟剤の匂いがした。
遠くでカラスの鳴き声が聞こえた。
湯船に潜り込むと自分の吐く息が上っていく音が聞こえた。
聞こえなくても私たちはずっと息をしているんだ。
長風呂を咎める人も、風呂上がりに脛を舐めてくる犬も、もういないけど、どこかで呼吸をしている。
私と友人と動物にだけ優しい弟は、ときどき高速線沿いの公園で幼馴染とボクシングをして遊んでいる。
昔から友達を作るのが上手な子だったけれど、いつからか沢山の仲間と連むのをやめて、車のエンジンやモーター音を愛するようになった。
多分、その頃から、弟と喧嘩しなくなった。
仲が良くなったからじゃない、彼が勝ってしまうからだった。
私より背が伸びて、弟の声は低くなった。
「お姉ちゃんをよろしくね」と頼まれて育った彼は、どうしようもない姉に優しかった。
お風呂場は声がよく響くけど、脱衣所の扉は厚くて暖かいので、啜り泣いても声が漏れなくて安心だった。
お風呂から出たら、バイトの求人を探そう。
すかいらーく系列じゃないところ。