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真面目に生きることが正義なのか

こんにちは。
ゆうきです。

先日、大学時代の先輩と3時間ほど長電話をして、ざっくばらんに色々な話をしてきました。

その中で、すごく印象的な話があり、忘れないためにもここに残しておこうと思います。

先輩との電話の中でこんな話がありました。
「学校でルールを守り、真面目に生きることを教育され、それが評価されるのに、社会に出れば、真面目に生きることが正解ではないことが多すぎる」という内容でした。

先輩は、「もっとまじめな人が報われる世の中じゃないと、世界は滅亡する」とまで言っていました(笑)。

世界が滅亡するは大げさだと思いますが、その話を聞いて僕はこんな感想を抱きました。

僕は、学校生活では先生の言うことをよく聞き、真面目に過ごしてきたと思います。中学生の頃は、先生方から、生徒会長に推薦され、生徒会長をやりました。また、高校では、部活の先生が体罰をするような人だったので、洗脳されたかのように、先生の言いなりになり、日々を過ごしていたように思います。

その結果、学校での先生方からの評価はよかったと思いますし、国立大学にも行くことができ、大学生活もとても充実した日々を過ごすことができました。

一方で、学校生活を離れ、社会人になってからの僕は、たいして優秀な人材ではないなと感じていますし、少し前の記事でもお話ししたように、前職では適応障害と診断され、短期離職も経験しました。

正直、僕は社会人になってから思うような成果を出すことができていません。また、学生の頃のように、何かに夢中になることもありません。

これが、誰のせいかと考えると、今まで僕が歩んできた人生、日々の過ごし方、考え方に問題があったからなのかなと思っています。

ただ、先輩が言うように、そもそも、学校教育では、真面目に生きることが評価されるのに、社会では、真面目に生きることが評価されないことに問題があるのでないのかと思う部分もあります。(が、それは、他責にしすぎなのではと思うので、そう思うのは控えるようにしています。)

と、こんなことを話を聞いて思いました。

僕は、約28年間の短い人生しか生きていませんし、世の中には真面目に生きて、評価されている人も多くいるのかもしれません。

ただただ、僕の能力が低すぎて、こんな人生になっているだけなのかもしれませんし、そもそも真面目な人間でないのかもしれません。


前提条件として、学校では真面目に生きることが評価され、社会では真面目に生きることが評価されないとするならば、学校の教育方針を変えるのか、真面目な人が評価される世の中にする必要があるのかなと思います。

ただ、僕には、学校教育や社会の評価制度を変える力はありませんし、自分のことでいっぱいいっぱいです。

まず、前提条件から間違っている可能性も大いにあるので、こんなことを考えているのが見当違いなのかもしれませんね。

と、社会に適合できず、生きづらさを感じている人の無駄話でした。

この記事を読んでくださった方、ありがとうございました。
記事を読んで、何か考えたことや思ったことがあればお気軽にコメントくださればと思います

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