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メキシコ滞在記 vol.2 

身体と踊り


メキシコ人は日本人とはまったく異なる身体の質を持っている。
初めて現地の小中学校のお祭りに行く機会があった。
高学年ともなればもうすっかり大人びている。当時小学6年生だった弟はメキシコ人のお友達と足早に消えてしまった。
取り残された私と母は一緒にぶらぶらしていた。
校庭の一角ではさながらディスコのような場所が作られていて、大人も子供も音に巻かれてつむじ風のごとく、身体を揺り動かしている。

くるくるした巻き毛の女の子が、花柄の半袖のシャツにジーンズ姿でリズムにのっている。
腰に巻いたパーカーの裾をつかんでひらひらと揺らし、腰をくねらす。
両隣にいた男の子たちは、陽気な花を眺めるように、いじらしく彼女に目をくれている。
一人の男の子が彼女の巻き毛をつかんでは離す。
日本からきたばかりの私は、その光景を未だにはっきりと覚えている。
身体でおしゃべりをしているみたいだった。

現地の中学に入ったある日、イベントでクラスごと踊りを披露することになった。
マドンナのマテリアルガールが流れる。
周りの子たちは長い手足を動かして踊りの振り付けをどんどん覚えていくのに、私ときたら手足が棒きれのようにまったく動かないのだった。
このときばかりは日本人であることを少しだけ恨んだ。
音と身体が見えない糸で繋がってるみたいな人たちを間近で眺めていたら、私はどんどん動きが固くなってしまった。
「物質主義の女」そう歌うマドンナの声が私を縮みあがらせた。

イベント当日、私は学校を休んだ。
踊りから逃げたやつ、と背中から罵声を浴びせられているような気がした。
激しいうしろめたさのファンファーレが、一日中自分の内側から鳴り響いていた。

メキシコ人と日本人は、身体の細胞の震え方が違うのだろうか。
音楽を流せば身体が勝手に動き、即興で音に身体をゆだねて踊る。
それが彼ら、彼女らの身体の質だった。

友達のガビーはメキシコ人にしてはどこか控えめで、恥ずかしがり屋の女の子だ。少しだけアンネフランクに似ていた。
ある日友達4人で遊んでいたら躍りごっこが始まった。
それぞれが1曲に対して1人で躍る。
首を鳩みたいに突き出してコミカルな動きをする子、マイケルジャクソンみたいにムーンWALKをする子、16才らしい伸びやかで明るい動きを目の前で見せてくれた。
ガビーの番がきた。
常々メキシコのラテン精神を嫌っていた彼女は、踊りを躍ることも好きではない。
しかし、その日の彼女はよほど楽しかったとみえてはしゃいでいた。
彼女が踊り始めた。
壮大で激しい音楽。
民族調の音に合わせて、彼女の黒く縮れた長い髪が空を舞い始めた。
腰から先を旗がはためくように真横に折り曲げて、万歳をした両手をくねらせる。
顔を真正面に沿えることなく、髪が音楽を吸い込んで息をしだしたみたいに、ざわざわとしなる。
身体に「神」と名付けられたものが憑依して、民に希望を分け与えているような、まさしく魂の勢いだった。
一滴のしたたる樹液のように、彼女から踊りが絞り出されていくのをみた。
「踊り」というものが人間に与えられた一番最初のページに逆戻りしたようだった。
身体の中に原始林がまだ残っていて、葉脈みたいに微細に彼女の体中に広がっている。
大人になった彼女は、その後フィンランドへとお嫁にいった。
彼女にはお似合いの場所だなあと思った。
優しい青い目をした物静かな人たちに囲まれて、彼女の原始林は眠ったままのはずである。

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