宗教の道に入ったら、お金の心配はなくなる、はず?
おとといのnoteで、お布施のソモソモ論を書きました。
お布施は、
「生活のために働くことをしない宗教者から、生きる指針についての法話をしてもらい、そのありがたさに応じて喜捨されるもの」
つまり山へ籠もって修行をする暇のない一般市民にとっては、お金を手放すことが修行なんだ、と。
利他の精神があれば、お金がなくても困らない?
仏教思想にねざした経営論では、こんなふうにいわれます。
誰かの役に立つ仕事(=奉仕)をする
↓
感謝されるから、あなたのお腹が減っているといえば、なにかさしだしてもらえる
↓
困ることにはならない
封建時代のムラ社会だったら、きっと成り立っていただろう。
その証拠に、日本の昔ばなしに出てくる👴いいおじいさんおばあさん👵は、きまって貧乏だけれど、生活には困っていない。
でもいまの都市部では、隣近所の人でも顔見知りではなかったり。
顔と名前くらい知ってはいても、食材をめぐむのは失礼に当たるかもとか、お金を介さないでモノや奉仕で気持ちを交換することは、とても厄介。
だからなんでもいったん、カネ・カネ・カネに換算されるよね。
お金の扱いかたを教えてくれる宗教
翻って、お金だけに執りすぎることはないよ、って教えるのが宗教。
キリスト教文化では、
というように、あまるほど稼いだら寄付すべしと教えています。
イスラーム教においても、金銭はアッラーの神からこの世にいる間だけ預かっているものにすぎず、持ちすぎて貯め込むことは、神がお喜びにならないと教えます。
こんなふうにお金の扱いかたをきちんと教えてくれる宗教であれば、隣近所が顔見知りでなくなっている現代生活においても、格差をならす役割も果たすでしょう。
お金にまつわる法話をしない日本仏教
日本のお寺では、在家の一般市民にたいして、
こんな法話を聞かされることが多いです。
お金の扱いは、あまり法話にならないように思います。
というより、法話をしないでお金の話しかしない和尚さまか、お金の話をするとひどいお坊さんと思われてしまうから、お金の話をあえて避けてとおる和尚さまとに、ぱっきりと二極化しているように感じます。
「喜捨(=喜んで、金銭ほか貴重なものを手放す)」という言葉があるくらいで、もともとは仏教にもお金の法話をする素地はあったと思うんです。
でも、まいど申し上げているとおり、昭和の高度経済成長期に、「お布施を弾めばいい戒名がもらえる」という悪識(〝良識〟の逆の意味で、いまつくりました)ができあがってしまった。
その延長線で、いま日本のお寺では、お金の話ばかりする〝ひどいお坊さん〟と、お金の話を避ける〝いい(と呼ばれたい)お坊さん〟のどちらかしか、いなくなってしまったんじゃないでしょうか。
だけど、さきほど引用した〝お金の話を抜きにした、みなさん絆でむすばれましょう〟的な法話って、すべてをカネ・カネ・カネに換算しないと渡っていけない世のなかで、響きますか?
響くわけがありません。
こういう時代だからこそむしろ、ルカによる福音書やイスラームの教えのように、「お金を持ちすぎてもいいことはない」という教えこそ、必要なんだと思います。
皆さんは、どう思いますか?
ご意見あれば、ぜひコメント欄で教えてください。
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