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短編小説 水母 

※注意
いじめ・家庭内不和などの描写などを含みます。ご了承いただける方のみ読み進め下さい。



 私は海が好きだ。幼い頃母に連れられてやってきた海の楽しさが、夕日に照らされ茜色に染まる海の綺麗さが。


 私は、茜色に染まった海を眺めながら、彼が来るのを待っている。

 彼と呼んでいるが性別はわからない。ただ、低く響く声をしているから彼と呼んでいる。

 彼は半月前に、今日と同じように海を眺めていた私に声を掛けてきた『クラゲ』である。

 当初は困惑した。クラゲ型の水中ドローンかとも疑ったが、水面を漂い、日の光をキラキラと反射する半透明の体にはモータや電極は見当たらない。彼は紛れもないクラゲだった。

 彼はクラゲとは思えないほどに饒舌でひょうきんで、私の心を見透かしたように私が欲しい言葉をかけてくれる。彼はユーモアを兼ね備えた明敏なクラゲである。

 「こんばんは」低く響く、くぐもった声が私の頭に直接響く。私は跳ねるように声の聞こえた方向へ目を走らせ彼の姿を探す。堤防の壁面傍に波に漂うクラゲを見つけた。

 彼は体をドレスのようにふわふわ と揺らしながら海面を漂っていた。半透明の体は茜色の陽光を反射し、キラキラと残映を映し出す。私は堤防に腹ばいになり海面に漂う彼を掬い上げる。

 「こんばんは、待ったわよ。今日は来ないのかと思った」私は逸る気持ちを押さえつけ、彼と挨拶を交わす。

 「ごめんね、今日は潮の流れが悪くて。なかなかたどり着けなかったんだ」

 「そうなの。それより聞いてよ」私は気持ちを抑えきれず、彼の言葉を遮り、語りだそうとする。

 「ちょっと待って、先にバケツに入れてくれると嬉しいな」

 「ああ、ごめんなさい」足元のスクールバックから半分に切ったペットボトルを取り出し、海水を汲み彼を優しく流しいれる。私はバケツを隣に置き腰を下ろす。

 「聞いてよ、今日学校でね」


 彼と出会った日から、私達は夜毎に会話を交わすようになった。私は人と会話をするのが苦手だ。目を合わせると私の全てを見透かされるような気がして、ろくに言葉を発せない。

 一時の気の迷いだった。ただ、その日は偶然にモヤモヤとした気持ちを抱えていたから、『口が滑り』、言葉を喋るクラゲなんて得体の知れないモノに私は悩みを打ち明けた。

 彼はクラゲで私は人間、思っていたよりも種族の壁は厚かった。人間相手であればはばかられることでも、彼になら何でも話せた。クラゲに弱みを見せても、クラゲに悩みを理解されなくとも「種族が違う」その一言で片づけることができる。

 私は彼と話す日々が拠り所になっていた。悩みも毎日の心配事も彼に話せば軽くなった。

 夕日は残光のみが周囲を照らす。夜が周囲を塗り潰すにつれて、言葉数は少なくなっていく。

 「まだ、帰らなくていいの」彼は私に対して問いかける。

 「大丈夫、まだ怒られないから」

 私は不自然にならないように快活に言葉を紡ぐ。しかし、言葉を紡ぐほどに心の奥底から焦りが湧き立ち、惨めになるのが分かる。私は膝を抱え、体を丸める。

 「ねぇ、クラゲは一緒にいてくれるよね」私は彼に問をぶつける。無駄なことだってわかってる。クラゲである彼に親子の、人間の悩みなんてわかるわけがないんだから。

 「じゃあさ、一緒に暮らさない」突拍子もない発言に面食らい彼の方へ顔を向ける。

 「美月の一番の理解者になってあげられる。何より、美月を悲しませることは絶対にないから」彼はまくし立てるように言葉を紡ぐ。

 「無理よ。クラゲと未成年の私じゃすぐに補導されるのがオチよ」私は彼の言葉に毒気が抜かれ、立ち上がりスカートに着いた汚れを払う。

 「でも、ありがとう。もし本当に困ったらその時は一緒に暮らそう」私はクラゲの入っているバケツを手に取る。

 「今日は帰るね。また、明日」

 「ああ、また明日」

 私は、海面間近までペットボトルを下ろし彼を海へと流す。海に漂う彼の体は月光に照らされ、小さな月のように見えた。


 両親は私に興味がない。両親は、大恋愛の末に駆け落ち同然で実家を飛び出した。

 当時、箱入り娘だった母は、実家から連れ出してくれた父に依存し、母の愛は父に向いている。母にとって私は父との愛を育む上での結果に過ぎず、私は愛を注ぐ対象ではない。

 父は家庭に興味はなく行きずりの関係の延長に過ぎず、私も母も数いる女性の一人にすぎない。家族の中に、誰からの愛も向けられない私に居場所はない。

 私は自宅の扉の鍵を開ける。私がドアノブを回すより早く扉が押し開けられ、よろめき尻もちをつく。

 「お母さん……」

 私は顔を上げ、扉の向こうに立つ母の姿を見る。母の髪はざんばらに乱れ、濃い化粧は涙によって溶けだし、目元は腫れている。

 「拓也」母は父の名前を叫びながら周囲を見渡す。地面に座る私を見つけ、うわ言のように父の名前を繰り返し呟きながら、おぼつかない足取りでリビングへと戻っていく。私は母の後をついて恐る恐るリビングへと入る。

 母は机に突っ伏し嗚咽を漏らしている。

 「お母さん。どうしたの」私は母に問いかけるが泣くばかりで返答はない。私は母の横に濡れて滲み、くしゃくしゃになった手紙が置いてある事に気がつく。

 手紙は父からの置手紙だった。

 父は真実の愛を見つけたらしい。今後の人生は潔白の身でありたいため、今後は自分の事を忘れて自由に生きて欲しいとの旨が綴られている。頭から血液と共に熱が引くのが分かった。いつかこうなる事はわかっていた。しかし、実際に経験すると込み上げてくるものがある。

 泣く母を放置し自室へと戻り、ベッドに突っ伏す。酷く頭の中が静かだ、何も考えられない。穴の開いたコップのように、思考が溜まらず零れ落ちる。

 窓から照らす朝日の眩しさで目を覚ます。いつの間にか眠ってしまったようだ。私は水を飲みに台所へと向かう。

 「あら、美月おはよう」台所の扉を開けると、焼き立てのパンと卵焼きの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。私は余りの光景に驚き立ち尽くす。『母が朝食を作っている』

 これまで母が私に朝食を作ってくれたことはない。何時も、父の朝食を作る際のあまりだ。私のために朝食を作ってくれた覚えはない。

 「お母さん、どうしたの」

 「何が」

 「えっ、いや朝食」

 「あら、母親が子どもに朝食を作るのがおかしい」

 母は昨晩の事を忘れたように上機嫌に、今まで私のために作ったことの朝食を作る、あっけらかんとした様子に恐怖を感じた。

 私は母の様子に戦々恐々としながら、食卓に着く。

 「飲み物は牛乳でいい」

 「うん」

 目の前に置かれた卵焼きとウインナーから芳ばしい匂いと湯気が周囲に漂う。私はこんがりと焼かれサクサクとした食パンを口に運ぶ。テレビからは朝の情報番組では、最近のヒットチャートが流れ。母は私に対して絶えず話しかけてくれる。私はこの異常な状況に笑みがこぼれた。


 母は変わった。私に対して嫌に興味を持ってくれるようになった。休日には一緒に買い物に出かけて服を買ってくれる。

 私は、真新しい若草色のコートを着て彼の待つ海へと向かう。彼はこのコートに気が付き、何て言ってくれるのか楽しみで仕方がない。

 「クラゲ、いる」私は何時もの堤防の上に立って、彼を探す。彼に会いたい、彼に会って褒めて欲しい。素敵だねとか、似合っているよとか彼に褒めて欲しい。しかし、私の声は波の音にかき消される。

 あの日から彼は現れなくなった。潮に流されてたどり着けないのかそれとも、浜辺に打ち上げられ干からびてしまったのか。一抹の不安を感じながら私はトボトボと帰路へとつく。


 私は制服に袖を通し、支度を整える。クラゲが現れなくなってから一月が過ぎた。相変わらず母の機嫌は良い。

 「今日は何時ごろに帰ってくるの」

 「六時頃には帰ってくるかな」玄関で靴を履いている私に尋ねる。

 「そう、気を付けてね。行ってらっしゃい」

 「行ってきます」あの日から習慣となった挨拶をかわし、学校へと向かう。


 下駄箱で真新しい靴の泥を軽く払い、上履きへと履き替え教室へと向かう。

 私は学校があまり好きではなかった。学校は個を認めない。学校に行けば嫌というほど私が少数者であることを実感させられる。誰もが真新しい化粧品だとか文房具だとか、手作り弁当を持ってきていて、両親に興味を持たれていない私が此処にいるのが酷く惨めに思える。

 でも、今は違う。私は教室に入り自身の席に着き、真新しい文房具を取り出し次の授業の準備を行う。昼食時は母の手作り弁当を食べ、午後からも真新しい文房具で状業を受ける。

 「美月さん、可愛い靴履いてるね」放課後、下駄箱で靴を履き替えていると背後から話し掛けられる。

 同じクラスメイトの森下さんだ。私と違って可愛くて、友達も多い。

 「も、森下さん、ありがとう。この前お母さんに買ってもらったんだ」

 「へー、良いお母さんね。そうだ、美月さんって家の方向同じだったよね、一緒に帰らない。」私は森下さんの提案に驚くが一二もなく飛びつく。

 「う、うん。一緒に帰ろ」

 母の興味を勝ち取って得た真新しい物達が、私が此処にいていいのだと教えてくれる。


 久方ぶりに海へと訪れた。彼が現れなくなってから足が遠のいていた。

 海は私にも平等だ。何も持たず誰からも興味を持たれていない私でも、美しく綺麗だと感じることができる。海を見ている時だけ私は独りではない気がしていた。皆がきれいだと感じるものを私もきれいだと感じることができる。それが私にとって、心の拠り所だったのだろう。

 「クラゲ、私新しい友達ができたんだ。森下さんって言って、優しくて美人で人気者の凄い人。私にはもったいない気がする。」私は波の音にもかき消されるほど小さな声で呟く。

 「お母さんにも興味を持ってもらえて、友達もできた。私ずっと考えていたんだ、クラゲが何なのか。クラゲは私の作り出した幻想、イマジナリーフレンドなんでしょ。」

 現実に言葉を喋るクラゲがいるはずがない。発声器官もなければ考えるための脳もない。そうだ、クラゲが喋るはずなんてない。

 「だから、もう大丈夫。私もう一人できていけるから。ありがとうクラゲ」私はクラゲに別れを告げる。

 ―いかないで美月

 風と波の隙間から声が聞こえた気がするが私は振り返らない。

 あの日から海へと行くのは止めた。放課後は友達と帰宅し、休日は母と一緒に出掛ける。海に行く暇もなければ行く気もない。幻想に夢に囚われる気はない。私には現実があるから。


 「お母さん、これ見て」私は、デパートのチラシを母に見せる。チラシには真っ赤なゴシック体で“新装開店”の文字が書かれている。

 「一緒に行かない」私は上目遣いで母にすり寄る。

 「そうね、じゃあ今度の休みに……」母が言い終えるか言い終えないかのタイミングでインターホンが激しくならされる。

 「誰かしら」母は椅子から立ち上がり玄関のドアアイから外を覗く。その場の時間が静止したように母が動きを止め、息をのんだのが分かた。

 「お母さん、どうしたの」母の傍によって母に触れる。母が無言で私を押しのけ、外に駆け出す。尻もちをつき痛みに顔を歪めながら外を見る。

 父だ、父がいた。私と母を置いて別の女性の元へと行った父がいる。父を汚く罵ってやろうと、叫びかけた。でも、母が満面の笑みで父に抱き着いている。

 「拓也、どこに行ってたのよ」

 「ごめんね、やっと真実の愛に気が付けた」

 母と父は往来の目を気にせず抱き合っている。私は下駄箱につかまり立ち上がる。足ががくがくと震えるのが分かる。

 「お母さん」私は母を呼ぶ。「お母さん」、母と父は何も答えない。

 母と父は連れ添って私の横をすり抜け、リビングへと入っていく。呆然とその様子を見続ける。私は持っていた広告をくしゃくしゃに握りつぶし、力の入らない足で自室へと戻る。

 父が帰ってきてから、私の生活を元に戻った。私のための朝食はない、母は父のために朝食を作る。焼き立てのパンと卵焼きの香ばしい匂いを横に、買い置きの菓子パンを食べる。

 くすんだ靴を履き学校へ登校し、昼食には購買のパンを買って食べる。

 あの日から森下さんと会話をしなくなった。休日に遊ぶに行けるだけのお金もない、私のくすんだ靴と文房具では彼女の隣に立てない。

 放課後、うつむきがちに荷物を片付け教室を後にする。靴に履き替えていると、後方で森下さんと誰かの話し声が聞こえる。咄嗟に下駄箱の横に体を押し込み、姿を隠す。

 「最近、あの根暗と仲いいの」

 「まさか。いい靴履いていたから声かけたら、喜んじゃって。遊びに誘うと全額出してくれるのよ」

 「へえー、今度私も行こうかな」

 「でも、最近は金回り悪いみたいよ…」

 私は叫び出したい衝動を抑え、ひたすら駆け出す。どこをどう走っているかわからない。海に潜っているように周囲の音が遠くに聞こえる。気が付くといつもの堤防だった。

 「久しぶり、美月」声の方向に顔を向ける。

 「私の妄想のくせに。でて来ないでよ」

 私は彼に罵声を浴びせる。母は最初から私を見ていなかった。私を通して見える父を見ていたのだ。私は父の代替品、本物が戻ってきてしまえば代替品はいらない。

 私はわかっていた、母の内に私がいない事なんて。でも、母が私を見てくれて、初めて友達ができたそれだけで私は良かったのに。

 「もう、いや…」

 もう何もかもが嫌だ、生きているのも辛い、まだ心の中に期待があることに嫌悪感がわく。

 「美月、君は独りじゃないよ」

 「独りよ。もう誰もいないし、誰もいてほしくない」

 「僕なら一緒にいられる」

 私は彼の言葉に思わず笑いがこみ上げる。クラゲ如きが人間と一緒にいれるわけがない。クラゲが私の辛さを分かるわけがない、それに、イマジナリーフレンドの癖に何ができるというんだろか。

 「もう、疲れた。クラゲにはわからないでしょうね、人間社会の辛さが。私もクラゲになりたい」

 「じゃあ、クラゲになろう」

 「何言ってんの、冗談はやめて」

 「冗談じゃない」

 彼の真剣な声に私は顔を上げ、クラゲを見つめる。クラゲの顔の違いは分からない。でも、声色から真剣さは伝わる。

 「……何するつもり」

 私の手首に何かが巻き付き、強い力で海へと引きずられる。

 「なに、やめて」私は手首に巻き付いたものを取ろうとするが巻き付きが強く、取ることができない。

 「さぁ、クラゲになるんだから海へと入らなきゃ」私は何かに引きずられるまま海へと落ちた。

 冬の海は冷たく、肌に針が刺されるような感覚が私を襲う。口から空気が泡沫となって去っていく。

 息苦しさで藻掻きながら周囲を見渡す。どうやら私の手に巻き付いていた物は彼の触手だった。髪程の細さの触手が日光にきらめく。

 嗚呼、私はここで死ぬのだと悟る。このクラゲによって私は死ぬのだ。誰からも愛されない私が誰かに殺される皮肉な話だ。

 私は口から洩れる泡を見ながら意識を手放す。


 ―美月

 誰かに呼ばれ、私は重い瞼を開ける。眼前にクラゲが浮いていた。クラゲの声が私の頭に直接響く。

 ―美月、僕たちとつながろう。もう、悲しむことはないから

 私はクラゲの言葉にうなずく。クラゲは何十、何百という触手を伸ばし私に巻き付く。クラゲのひんやりと熱を感じない体が私の熱と混じり合う。

 ―何で私なの

 ―独りだったから

 四肢の感覚が消え、私と彼の境界線が曖昧になるのが分かる。

 ドロドロに溶けクラゲと混ざり合う中で、私はクラゲの中に海を見た。


 私は海が好きだ。幼い頃母に連れられてやってきた海の楽しさが、夕日に照らされ茜色に染まる海の綺麗さが。何より、海を見ると母を思い出す。あの日、私だけに向けられた母の笑顔を。

 私はクラゲの中に母の温もりを感じた。父や他人にじゃない、私だけに向けられた真実の愛を。

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