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不登校の親になって、一番辛かった時期。

不登校の親の会に参加して、もう7年以上?になると思う。

最初は、すぐに、なるべく早く学校に戻すにはどうしたらいいのか知りたかった。

何かきっかけさえあれば、急激に回復して、とんとん拍子に元の調子に戻るんじゃないかと願って、その「何か」を探しまくっていた。

そして、親の会に行った時、先輩お母さんたち(もう子供が成人して、社会に出たり出れなかったりしてる)が、笑いながら世間話している事に、イライラした。

「私は一刻も早く子供の問題の解決策を探しているのに、この人達はなんで関係ない話をして楽しそうにするんだろう」と。

だけど、何か月も考えられる限りの働きかけをした結果、状況は良くなるどころか、子供は働きかけられるのを嫌がって、何を言っても警戒し身構えて、最後にはどう誘ってもどこへも行かなくなった。

その時やっと、私にはできる事が無いんだと思い知った。

それから、私は親の会に行っては、他の家の(進学したら通学できてます、とか、最近は趣味でお出かけしてますとか)近況を聞いては、「うちはこの一か月特に変わりはありません」と毎月言った

不登校の親ばかりの会なのに、その中でもとりわけ進展の無い私は、報告することが無い代わりに、最近の不登校を取り巻く世間の動きとかの話をするようになり、毎月の参加が楽しくなり、誰よりも大笑いするようになった。

同じ立場の沢山のお母さんたちと話すと、気持ちが楽になったし、参考になる話も多くて、何年か経ったらすっかり会の中で先輩面をして、自分の子供はまだ特に変化なく家にいるのに、新しいお母さんたちに、「待つことの大切さ」を説き始めた。それを唱えていないと、私が出口の無い状況の中で辛かったし。

そんな風に長い期間親子共に休憩して、数年後に子供が少しずつ動き出した

一度動き始めたら、もう私は協力者でいるだけで良くて、今振り返ってみると、最初の、原因を探したり、働きかけ方を考えたりしている時期だけが辛く、しかも、子供には悪い影響ばかりだった。最初から、何も働きかけずに休ませておけばよかった

でも、普通の小学生から、不登校になる事を受け入れるには、気が変になるくらいの混乱の時間が、数か月か、長ければ数年必要だったんだと思う。地域の学校に密着して母子で過ごしたグループから抜けて、今までの社会的なつながりを全部切って、親戚付き合いや、通院、習い事、勉強、行楽、旅行、、、普通に朝起きて夜寝ること、風呂、歯磨き、、、何もかも出来なくても仕方ない、子供は精一杯やっている、子供の方が私より誰より苦しんでいる、と本当に思えて、子供を責めなくなり、周囲の人と子供の間に入って、子供の味方になって戦った。甘えだとか、親がおかしいとか、そのくらいできるはずだとか、出来ると言ったのに、とか、そうゆう視線や言葉に「無理なものは無理なんです。子供は精一杯やってます。」と説明し続けた。

そうゆう気持ちになるまでには、私の人生って何だろう、子供の人生って何だろう、生きているって、楽しいって、幸せってなんだろうと、自分の中の常識を変えなくちゃいけなかった。

それから、学校を休んでいない他の兄弟にも私は怒らなくなり、「菩薩」と呼ばれるくらい、子供が満足していれば、勉強も部活も学校も進路もどうだっていい、と思うようになり、多分それから休んでいる子もゆっくりゆっくり調子があがっていったような気がする。

休み始めた頃には、何月何日には何が出来たとか、詳細に覚えていたけど、子供を観察しなくなってから、どのエピソードがいつの出来事なのか記憶が曖昧。なんとなく毎日を過ごしている。時々、高校を決める期限とか、通信制高校のスクーリングとか、強制的に区切りがつけなくちゃいけない日があるけど、それ以外はいつ何を出来たか、出来なかったか、気にするのをやめた

もしもタイムマシンで最初に休み始めた頃に戻れたら、夜も眠れなくなって、気分が良くなる香りとか、運勢が良くなる石とか、地面からの悪い気を遮断するとか、電磁波を防ぐとか、そんなことまで考えて、半分おかしくなっていた私に、「一刻も早く、ゆっくり、のんびり、ただ楽しく過ごし始めたほうが、回復が早いんだよ」と教えてあげたい。聞く耳は持たなかったと思うけど。

だから、今新しく親の会に参加してくるお母さんたちにも、今は耳に入らないと思うけど、「とにかく何もさせようとしないで、本人の過ごしたい毎日を過ごさせてあげるのが一番ですよ」と言っては嫌がられているし、これからも機会ある毎に言ってあげようと思います。(そんな事聞きたいんじゃない、という顔をされながら)。。。

#不登校 #親の会 #人生の休憩 #学校 #通信制高校 #エッセイ


疲れる毎日を誰かの文章で癒されたい。そして、私も誰かを癒したいです。いつかできたらいいな。