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大河ドラマ「光る君へ」感想 (26)


 いろんな意味で大波乱の二十六回……スタートは日食と大地震から(長徳四年)

 とりあえず、以下、ざっくり感想。

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*めちゃくちゃになってしまった邸を片付けるまひろたち。
 震災発生時、身をていしてまひろをかばったという宣孝。女遊びだけでなくその武勇伝もドラマにしてやれよ、とちょっと思ったり……(^^;
 だけど困難にあっても明るく自分を慈しんでくれる宣孝に、まひろの心も解されていっている様子も見受けられた(ような気がしていた……)


*かたや、大内裏。

*晴明の天文密奏(災厄について占うこと)により、己の不徳を嘆いている帝。
 晴明は道長に「宝物を使え」と。
 姉の詮子は「身を切れ」と促す。
(いや、悲壮な覚悟の奥の手みたいに言ってますが、それむしろ摂関家のお家芸ですから! 前回も言いましたが、先祖代々、藤原氏はそうやって繁栄してきてますから!!)

*実際には、本人はともかく、家族からは猛プッシュされるであろう娘の入内。
 このドラマでは、策略家の一族出身の后(定子)にたぶらかされてご乱心の一条帝をお清めするために生贄として捧げられる……という設定になっているようです。(トンデモ謎設定ですね)

 仮に帝が定子さまに溺れて世が乱れてるとの考えがまことしやかに流れてたとして、彰子が生贄になってそれが治まるという道理が理解できないよ……
(皇子誕生に入内をぶつける理屈もよくわからん……何が清められるのそれで)
 

*それにしても彰子の裳着は美しかったですね~!!
 こういうものを実写ドラマで見られる喜び……!( ;∀;)
(彰子はこの当時まだ11歳。源氏物語(というより漫画「あさきゆめみし」)の女三宮をほうふつとさせるお人形さんのような意思の薄さでした。今後の成長に期待ですね)

*そしてそして、一条朝の四納言がついに勢ぞろいしました!
(やっと!! もう開始前からめちゃくちゃ楽しみにしてたカルテットですから!!!)
 会話の内容はともかく()揃いぶみに感激!


*いっぽうのまひろ。庶民への慈善救済活動にはそっけない態度の宣孝にがっかり。
(しかし冷たいようだけど本来はこっちのほうが平安貴族のスタンダード。鳥喰とか、およそ貴族は庶民を同じ人間とは思っちゃいないんですよね)
(あと、まひろのやってることはやっぱり場当たり的で自己満足っぽい……)

*ちらちら見え隠れする女の影に不快感をしめすまひろ。
 分かり合えないまま別れ、とげとげしい文のやりとりが続き、せっかくご機嫌伺いにきた宣孝とついには口論になり、道長のことまで引き合いに出されたまひろは、激昂して炭櫃の灰をぶちまけてしまう。

*頭を冷やすためか、夫婦円満祈願のためか、石山寺へと旅立つまひろ。(なんでやねん)
 そこに、あらわれたのはソウルなメイトの忘れえぬキラキラエフェクトのあの人…………!


 といったところで、待て、次回。

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~ 今週の小ネタ ~
*鬢削ぎ髪………まひろの髪型が前回までと変わましたね!
 鬢削ぎといって、当時の貴族女性たちは大人になった証に髪を整えたんですね。一般的には16歳の6月16日に婚約者が削ぐことが多いらしいですが、まひろは結婚を機に鬢を削いだようです。
(吉高さんにはこちらのスタイルのほうがお似合いですね(*^^*))

*宣孝と紫式部の夫婦喧嘩……紫式部集にその詳細が(しつこいほど)残されているエピソード。
 ただまあ、実際には紫式部に男の影(道長に周明に)があるわけなくて、ひたすら夫の不実をなじってる感じですが。
 まひろが怒って炭櫃の灰をぶちまけたのは、源氏物語の髭黒大将の逆オマージュですね。


 いやはや、とにかく今回は大荒れでしたね。
 史実がどうのというよりは世界観がオリジナリティあふれすぎてて、私もリアタイ時はずっとうまく飲み込めないままでした……
 そして最後の爆弾。

 このころ(998年頃)史実として紫式部は宣孝の娘・賢子(のちの大弐三位)を産むわけですが……当初からちらほらウワサはあったけど、このままではまさかほんとに道長が父親になりそうで( ;∀;)
(大弐三位ふくめ、一条朝の子世代が好きな私にはなかなか受け入れられない設定だ……)

 歴史ドラマと史実……ちまたではいろいろと話題になってきておるわけですが。

 それぞれ、いろんなご意見があると思うけど、私の所見はこれにつきます。

 もともと、古典文学が大好きでそちらから入った歴史好きなんで、『古典や伝説ではそう語られている』『でも史実ではこうだった!』とか、そういう、違いなども楽しみたいと思ってる。

 大河ドラマもね、長くいろんな作品を観てきましたが、人物や事象に対する独自の解釈や設定、オリジナルキャラクターはどの作品にも必ずありました。
 歴史創作をするうえでオリジナル要素はやっぱりいるんだなぁと思う。私自身、歴史創作をする身ですのでその必然性はそれなりに理解できます。
 独創性や作家の力量が試される……のはどうなのかよくわからないけど、『これは史実をもとにしたオリジナルの創作作品ですよ』という言外のアピールになる、というのはわかる気もするし。

 新解釈とか、「ほんとはこうだったかも」「こうだったらおもしろい」っていう新しい視点の描き方っていうのも、本来は歴史創作の醍醐味であるはずで。

“麒麟がくる”の明智光秀とか“どうする家康”の築山殿とか、そうだったんじゃないかなぁと思いますね。従来の悪人イメージを覆したいっていう気概を感じた。“鎌倉殿の13人”の北条義時もそうだったかな。(もともとあんまり悪人イメージなかったけど、歴史的には悪役にされがちな義時)
 私が一番好きな“平清盛”も、清盛はかなり美化されてましたよね。

 ただ、たとえば築山殿に関してはかなり無理のある美化の仕方だったので、個人的にはむしろイメージダウンになってしまった。
 やってることや言ってることがお花畑(直喩)すぎて違和感しかなくて、「そんなわけあるか!」ってゲンナリしちゃったんですよね。
 それでも、脚本家さんの気概は感じました。悪女説の多い築山殿を再評価しようとする試みなんだなって。それを軸に話を回したいんだなって。同じく悪女認定されがちな淀殿の最期は見応えありましたし。
 なので、個人的には『好みじゃない』『理解はできない』設定でも、愛と情熱は感じたわけです。

 だけど残念ながら、今年の大河ドラマにはそれが感じられない。
 そこが一番の問題なんですよね。。

 もともと、炎上商法か? というくらいインタビューなどで「平安時代なんておもしろみがない」連呼しまくってらっしゃる脚本家さんなんで、当初から不安はありましたが……
 人や物に対する描き方や事象の切り取られ方を見ているかぎり、その意識が、平安時代を愛する視聴者とのズレになって出てきちゃってる気がします。

 とにかくおもしろおかしくキャッチーにするために、アレコレ独自のアイデアを盛り込んで書いておられるんだろうけど、たびたび「なぜそんな余計な改変を……」と思ってしまう。
 セリフも、もちろん当時の話し言葉を再現なんてできるわけないにしても、あまりにも現代的すぎてしっくりこない。感情の機微も現代的だし。
 人物像、事象、態度や言葉遣い。それらのほとんどがオリジナルに寄ってるのであれば、「それじゃあただのセットが贅沢なコスプレ劇じゃんっ!」ってなっちゃう。

 道長と紫式部の恋愛なんてわりとよくある設定だと思ってるので、問題はそこじゃなくて、「精神が先進的で高度な二人が誰にも理解されなくともお互いのみが魂レベルでつながる運命の相手」っていう、それを描くに当たっての描き方が強引すぎて無理がある気がする。
 強引というか、安直というか……ややこしい人間関係や思惑をわかりやすくするために、特定人物の単純な悪人化を図っているのがどうにもいただけないんですよね。
 円融帝しかり、義懐しかり、伊周しかり……この先、あきらかに三条帝もヒールに持ってかれそうだし。
 あげくにここにきて一条帝まで!
(定子悪女&一条愚帝設定はほんと、悪手ですよね……)

 そうなると、「やっぱりオリジナルキャラクターの使い方に問題があるのでは?」となってくる。
 そもそも大河のオリキャラって、だいたい重要な役どころで主人公の人生とも密接に絡み合うんですよね。で、初期から後半のほうまでずっと登場しつづけて、たとえば死亡して退場となったとしても、その後の主人公の精神や生きざまに深く影響を与えることが多い。
 そこへいくと“光る君へ”。
 直秀……なんだったの、彼は(涙)
 散楽のみなさんの死亡回感想でも書いたけど、あんな最期はどうにも納得できないし、まひろと道長にとっては恋のスパイスになっただけ(ちょろっと二人の今後の生き方に影響与えてるっぽくみせてるけど、ドラマの流れを見るかぎりそういうふうには受け取りにくい)(越前の海でも微塵も思い出さなかったし←まだ言ってる)で、回想シーンすら登場しない。
 もっと言えば、あの小遊三師匠の絵師とか、字を教えてたたねちゃんとか。それぞれの役割がどうにも軽い。
 周明だって、なんだか洛外アバンチュール要員っぽく登場してよくわからないまま退場して、再登場あったとしても別に期待できそうもない。直秀も周明も、結局は単なる当て馬キャラかよ、と思ってしまう。

 正直、そういう軽いのに細かいオリジナル設定に尺を取りすぎなんじゃ……って思うわけです。
 そこらへんをもうちょっとスッキリさせて、出ている人物像をきちんと深堀して描写して、史実に基づいた人間関係をちゃんと構成・調理して、そのうえで紫式部や道長とうまく絡ませていけたら。
 そうしたら話のブツ切れ感とか唐突感も薄まって、もっとまとまりのあるストーリーになるんじゃないでしょうかね。
 今までのところ、とにかく物語が断片的で伏線もなにもあったもんじゃない感じがずっとしてる。人物も、その感情や心も、だからなんだか薄っぺらい。


 あとやっぱり、『わからないことは好き勝手に補って創作していい』ということと、『わかっている部分を恣意的に改変する』はちょっと違うんじゃないかなぁ。少なくとも、大河ドラマの看板を掲げている以上は、もうちょっと時代的な配慮は必要では。
 前回、惟規が「宣孝が市で若い女に布を買ってやってるところを見た」とか言ってたけど、そんなことあるわけないんですよね、そこそこの位のある貴族男性が。召人にしろ愛人にしろ女房にしろ、連れて歩いてましてや一緒にお買い物なんて。あの時代では恥にもなるんじゃないの?
 四納言だって、すっかり“信頼できる道長隊”みたいになっちゃってるけど、まだその諦観になるにほ早い時期でしょ。
 公任は本来は嫡流だし、俊賢も行成も斉信も世が世ならもっと出世したりする道があったわけで。
 忸怩たる思いを抱きつつ、プライドを守りつつ、綱渡りみたいに道長はじめ朝廷で渡り合っていくのが通常では。そんなあっさり、負けを認めて「俺たち道長親衛隊!」みたいにならんでも……

 そしてこちら ↓↓↓ 再掲ですが。



 史跡や寺社仏閣、博物館や美術館の展示などを巡るのも大好きだけど、そこに存在するものが後世の創作だったり偽造だったりということもぜんぜん興味深く受け止められる。
 その違いがまた醍醐味だとも思ってるし、偽史や偽作はなぜ、どういったきっかけでそういうものが作られたのか、その経緯をたどるのもおもしろい。そんでもってその受け継がれてきたものこそが、すでに『人々の歴史の一端を担っている』とも考えている。

「義経が鵯越の逆落としをしてない」とか、「実朝が暗殺された時、あの大銀杏はまだまだ若木でとうてい公暁が隠れられる大きさじゃなかった」とか。
 百人一首でいえば、「秋の田の」も「あしびきの」も天智天皇と柿本人麻呂の和歌ではない可能性のほうが高いですし、文屋康秀の「吹くからに」は息子の朝康の作と、赤染衛門の「やすらはで」は馬内侍の作とも言われているし。

 紫式部が石山寺で源氏物語を構想して書き始めた、というのも石山寺縁起が主張しているのみで、ほかのどんな資料にも、なんの根拠も見当たらないという。
 それなのに、「紫式部はこの部屋で源氏物語を書きました!」「これが紫式部が使ったすずりです!」っていう展示がまことしやかに行われ、ファンや観光客が千年前から絶えないわけですよね。
 そしたらもう、それは立派な一つの文化であり歴史だなぁと思うわけです。

 ただ、そこで大事になってくるのがやっぱり “リスペクト精神” じゃないかなぁと。
 たしかに記録には残れども歴史の真実は正確にはわからない。だからこそ、そちらを専門的に研究されている方々に対する敬意や、過去の人たちに愛着を持ってこその創作ではないですか。
 史跡なんてほんと、「ほんまかいな?!」みたいなものがたっくさんあるけど、(全国に何本もある墓とか刀とか、酒呑童子の首を洗った血の池とか、京で討たれて川辺に流れ着いた鵺を供養した碑とか)そこに確かに愛情を感じるからこそ、遺されているものはどれも興味深く、面白いなぁと思います。

 過去の人物の知名度を利用して好き勝手に独自の創作をするのは……まあ少なくとも、私の好みには反します。とてもツラい。



 まあでもね、つらつら感想書いてきたけど、結局はドラマ。創作劇なんでね……
 あくまでも個人の趣味嗜好によって好き嫌いは分かれるわけだし。。(エンドレス愚痴ループ)

 あああ、いよいよ今夜、放送ですね……賢子ちゃん……( ;∀;)
(「そんなに嫌ならもう見るなよw」って毎週のようにだんなには言われ続けてるんですけどね、いや、観ます。観ますとも、最期もとい、最後まで……)
(だって楽しみにしてたんだもん、平安大河、ずっと待ってたんだもん( ;∀;) ツラぁ)

(これ ↑↑↑ 絶対うまいこと思いついた! と思ってらっしゃるんんだろうなぁ……ひたすらツラい( ;∀;))



 暑い日々が続きます。
 トプ画には、先日念願の “削り氷に甘葛” やってみたのでその時の写真を載せてみました。
 みなさま、お身体にはお気をつけて。
 今宵も “45分”、気合いを入れて臨みましょう。。

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