生きることに冷めている自分
わたくし、意外とヤケというか投げやりな思考を持っております。
具体的に言うと、色々考えていると
「どうでもいい」「めんどう」
とすぐに面倒ごとから逃げ出したくなる。
昔の男()にも
「なんでそんなに達観した気でいるの?」
「なんで人生諦めてるの?」
と言われたくらいです。
なんでしょうね。
多分生きることに冷めているからなのかと…。
聞いたら、知り合いは「消えたい」とすら思ったことはないと。
もしかしたらこの冷めた感情、虐待またはそれに近い育てられ方をしてきた人間の特徴かもしれないですね…
どうして「冷めた自分」になったか、ちょっと以下に自分との対話を書いて紐解いてみます。
虐待にトラウマをお持ちの方は読まないでくださいね…
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夕方「今日は怒られなかった」と安堵すれば夕食時に些細な事で親に怒鳴られ、怒鳴られる自分に失望する。どうして安堵したの?どうして怒られたの?布団に入る瞬間まで怒られないように気をはらなかったの?ってかそんなことも思うのも辛いから考えたくない
「明日は誰も殴らない日にして」とカミサマにお願いしても親は殴ってくる。願い事は無意味。
「明日こそ親に怒られない良い日になるといいな」と期待すると安易に裏切られるから、最初から「明日も怒られる」と期待をしない。
感情を表に出せば殴られるから感情表現しない。大きな声を出すと「うるさい」と怒鳴られる。テレビが面白すぎて馬鹿笑いすると「下品だ、うるさい」と怒鳴られる。じゃあ感情なんて表に出さない。
怒られた時、不満な感情が表情に出て激しく怒られた。じゃあもう無表情でいよう。
私は性格も曲がってきて人付き合いも下手なわけで「友達もすぐ裏切るもの」だから簡単に作らない。関わらない。相手を深く知らないでいよう。
相手に興味を持つだけ傷つく。どうせこんな性格のブサイクは相手に軽蔑されるんだ。
はいはい、どうせ明日も最悪な日なんだ…と最悪を考えていないとつらい。
感情の起伏をつけると、つらい。だって明日も最悪なんだから。
冷めているのが一番楽。考えないのが一番楽。
怒られているときも殴られているときも無感情でいれば他人事で済む。歯向かうな、受けろ。そうすれば短く終わる。
おまけ:着飾ると父親に「趣味が悪い」「下品」「水商売か」って言われる。そう言われるのも面倒だからおしゃれなんかしない。明日もGパントレーナー。
そりゃあ冷めるよね…。
なんか納得した。
でもこうやって言ってくる、些細なことで怒る親は身近にいないんだし
もう少し楽に生きてもいいんだよなあ…って思っても
なかなか思考の癖は直せませんね…。
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