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【留学生時代】私の波瀾万丈なバイト物語①

20数年前の話だが、私は中国から留学のため来日し、中国での普通の生活から日本での極貧生活に陥った。

自費留学だったので、最初の1年の学費+生活費の合計150万円は両親が持たせてくれた。両親に「返して」とは言われてないが、一日も早く返すと心に誓った。

当時の中国のサラリーマンの月収は5~6万円程度の時代で、この大金(両親のほぼ全財産)は私にとって重かった。

不幸にもその頃は円高にあり、当時は日本円と中国元のレートは100円=8.5元だった。150万円に両替するのに多額な人民元が必要だった。(2年後初帰省した時には100円=6.5元まで急激な円安となり、また損した感じ)

生活水準高い国への留学、経済的負担はとても大変だった。物価が高くて買い物をするとすぐにお金が無くなってしまう。とにかくその時、目にしたものはすべて迅速に人民元に暗算して、買うべきかどうか判断していた。

スーパーでは野菜や果物が1個売りしていて、中国東北部出身の私には物珍しかったが(中国東北地方はとても豪快で、買うなら数キロで測り売りが基本)、何よりトマトが1個100円(つまり8.5元)以上するなんてびっくり!ありえない!故郷の市場では100円では1kgも買えるのよ。

中国ではほぼ毎食食卓に上がっていたトマトは先進国の日本に来てからは食べれなくなった。(当時は母に国際電話でトマトが高いと愚痴をこぼしたと思う、なぜなら帰省する度に大量のトマト料理が並ぶようになった)自販機で売っている缶ジュースも、元に換算すると高すぎて買えない。タクシーは中国の10倍の金額なので当然乗れない。生活QOLは下がりまくりだ。

さらにびっくりしたのは中国発祥の庶民食「ラーメン」が日本で華麗に変身し、一杯800円以上もして、貧乏留学生にとって手に届かない食となっていた。中国ではラーメンがファストフード感覚の食べ物で100円もしなかった(いまは中国でも物価上がったので当時の話だが)。中国の価格を考えると食べれない、なんかもったいなくて。

とにかく持っているお金はいつまでもつか不安だし、これ以上両親に負担をかけられないので、バイトをしてお金を稼ぐことは勉強に次ぐ重要な目標になっていた。もちろんアルバイトすることで日本語の勉強にも役立つが、何より学費や生活費が心配だった。

アルバイトしたい、お金を稼ぎたい。多分当時の脳はこんな感じだった。

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しかし、アルバイトするのには日本語が必要。肝心な日本語スキルと言うと、来日前の3か月の特訓で50音図と挨拶を学んだだけ。成田に降り立った瞬間、周りの日本語は全部ざわざわの噪音になり、何一言聞き取れなかった。

どうする。。無料の求人雑誌は駅にたくさんあるが、言葉のキャッチボールが全くできないので、電話で応募するのは無理だ。直接行くしかない。そこで、住まいの最寄り駅周辺を歩いでアルバイトできそうな飲食店を探した。店頭にアルバイトの求人の貼り紙を見つけては、唐突に店に入った。

店員らしき人に「ワタシはアルバイトをしたいデス」と事前に辞書で調べた日本語を片言で喋った。「待って下さい」と言われ、奥から店長らしい人を連れてきた。私の想像では、返事がおそらく「いいよ」「ダメだ」のどちらかと思っていて、頭を左右に振られたらすぐに退散しようと準備をしていたが、どちらでもなかった。店長は笑顔で長い話を続けた。

話の内容が理解できない!採用?不採用?どっちなんだ?

こんな笑顔なんだから採用されたかな?ダメならこんなに長い話をする必要ないよね。バイト時の注意事項かな。。

でもOKならなぜか身分証を求めてこないのかな?シフトについても言う気配もない。。

私がチンプンカンプンな表情をしていると、ようやく店長も私が言葉をいっさい理解していないことに気づき、腕交差のNGサインを出してくれた。

がっかり。。

いまだにあの長い話の内容はなんだったかはわからないが、おそらくダメの理由を丁寧に述べていたと推測する。

その後も何軒かチャレンジしたが、当然の如く全滅だった。

自力で探すのは無理だと思い、周りの留学生仲間に紹介をお願いするしかなかった。ちょうど誰かがパスしたバイトの情報が入り、北千住にある大衆酒場がスタッフを募集していて、裏でお客さんが注文したお酒をひたすらつくればよい、空いてる時間に掃除もするというバイトだった。時給は680円と20年前の当時でも相当低い方だが、日本語のスキル不問ということで私にはぴったりのバイトだと思った。しかも面接も簡単でほぼ採用とのことで即座に行くと決意した。

しかし、これが悲劇の幕開けになるとは知る由もなかった。。

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