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読書メモ:『「遊び」から考える体育の学習指導』(松田恵示)第1部 体育の学習と指導の理念 ー「遊び」の観点と現代的教育課題ー 1 体育と「遊び」

「遊び」と学校体育の意味
「遊びは予め決められた目的を持たない、肉体的、性格、知性の教育に見える。ただし、それらは遊びの本質ではなく付加価値に溜まるのだ」(遊びと人間、ロジェ・カイヨワ、1990)
それでは遊びの本質とは?・・・「面白い」ということ
面白い=ワクワクすることに夢中になるほど、「肉体的、性格、知性の教育」が付加価値として豊かにもたらされる。
スポーツの定義・・・「遊びの要素を含み、他者との関わり合いの中で行われる身体活動」
オリンピックなどで行われているスポーツは、ルール等が工夫されているからこそ、より長い時間取り組む必要があるような「深い遊び」となっている。
公教育における保健体育科で教えている運動の多くが「スポーツ」であることを鑑みると、学校体育の意味は、「身体を使った深い遊び」に夢中になることで「肉体的、性格、知性の教育」もなされることといえる。


「遊ぶこと」が保証されないスポーツの学習?
上記の原理と照らした時の、現代の学校体育の問題点

①授業の中で「遊ぶこと」の内容を絞りきれず、期待している付加的な価値に至らない、「浅い遊び」になってしまうこと。
②「教える」「身につける」ということがいたずらにむき出しになり、「ワクワクすること」に夢中になることが子どもたちに保障されない授業となってしまうこと。

①について
例:バレーボールの授業で、ビーチボール等を用いてボールを軽くし、空中にあることだけを競い合うような「ボール弾きゲーム」に終始すること。
「バレーボール」として長い時間かけて育まれてきた、人間の財産=真正の文化とならない。
「バレーボール」という「深い遊び」を支えているそのゲームの原理、つまり、「相手コートにボールを落とすことができたら得点」「味方コートにボールを落とされたら失点」「だからこそ、ボールをうまく守りから攻めに繋げることができるかどうかもポイント」という局面に夢中になることが保障されなければ、「肉体的、性格、知性の教育」が付加価値として豊かにもたらされることも無くなってしまう。

②について
例:バスケットボールで「パスを受けるための動き」を身につけることだけを過度に取り出し、結果としてこの「動き」が身についていれば良いとすること。
身体の動きを身につけるだけのことならば、これは仕事のような活動に近くなってしまう。

子どもが「楽しそう」に活動していることで子どもの主体性・自発性を過度に評価したり、「動きを身につける」というそこでの「教材効果」のみからその工夫を評価することを、あたかも教育的であるかのように思い込んだりすることが見られないだろうか。


自尊感情と学校体育
子どもたちに見られにくくなっている「失敗しても何度でも意欲的に取り組む」という態度は、「遊び」に特有の態度である。「遊び」とは「失敗してもok!」の世界。意欲とか活用とか探求とかいう言葉はこの態度なくしては成り立たない。
つまり、「遊び」を通して子どもたちは「ありのままの自分を受け入れる」ことを学び、「自尊感情」を身につける。そう考えた時に今現在の教育課題の一つとして、子どもや若者が「遊び」ないしは「遊びの精神」をなくしていることがあり、スポーツという運動遊びに夢中になることは、より大きな意味を持つのではないか。
ひるがえって、現在の学校体育では、「できる」をお膳立てしすぎて「安心できる」喜びを与える方向にのみ動いているということはないだろうか。問題は、これからの社会を生きる上でのスポーツや運動を学ぶことの意味なのであり、「どのように」の前に「なぜ」を考える教師の態度のようにも思われる。

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