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ノルウェーの山小屋で考えた、生きること

前回更新を1回分飛ばしたと書いてから、もうあと2回分ぐらい更新を飛ばして、更に予定していた第2土曜日より数分遅れてしまいました。帰国して、もうすぐ3週間を迎えようとしています。

東京の暮らしに、ノルウェーに行っていた期間があったのかわからないぐらいに馴染んでしまった今、友人の山小屋(Hytte)で過ごした時間をあの時感じた瑞々しさで書けるのかというとそうではない気がするけれど、やってみます。


山小屋での生活は、家の中に水道がなく、電気は20Wまでで(充電もできない)、wi-fiもない(携帯電話やパソコンが使えないというだけで、前述の充電をする必要はほぼなくなったのだけれど)。周りに人はいなくて、家もなくて、そのかわりに自然が山のようにある、というか自然の中にいさせてもらっている気持ちになる。

山小屋ではハイキングをしたり(森林限界点より高いので木がなくて歩きやすい、そして山頂でのこのドヤ顔ね)

ごはんを食べたりビールを飲んだり(ガス式の冷蔵庫はある)

シャワーをしたり(シャワーのためには水を汲んでお湯を沸かしておく)

楽器を弾いたり

サウナにはいったり(なんとサウナはあった!)した。

わたしたちは2泊しかしなかったけれど、通常はここに1週間滞在したりするらしい。1週間も一体何するんだろうなぁって思ってきいたら、毎日ごはんを食べたり、ハイキングをしたり、山小屋の手入れをしたりすることを楽しむって言われた。

例えばこのいい感じの柱は昔なかったのを足したものだし

というように、次々出てくる山小屋手入れ話。

山小屋に遊びに来て山小屋の手入れをしているというのはちょっとおかしな感じもするんだけれど、山小屋にいるととてもしっくりくる。自分たちが生きるために、食べて、住んで、寝て、身なりを整えて、、そういう、生きるための活動に心を配ることは、普段意外としていない。数年前に宇多田ヒカルさんがアーティスト活動をやめて人間活動に専念すると言っていた、まさにその人間活動の塊みたいなものが、山小屋で普通に生活することだった。

わたしはいつも東京で、演奏をし、執筆をし、そしてそれらにまつわること(時間のかかる練習や途方に暮れそうに膨大な調べ物だけでなく、主催者との打ち合わせ、ウェブと紙両方の媒体による宣伝に至るまですべて)をやることだけに夢中だ。時折食事を栄養としてのみ摂取している時もあるし(おいしいものはもちろんすきだけれど)、睡眠はあしたのため、シャワーは清潔のため、メイクは社会のため。ふと、山小屋という極端にシンプルな生活にまではしなくても、なんだかもうちょっと、生きてみたいなぁ、普通においしい空気吸って普通においしい水飲みたいなぁって思った。


ところで、日本では衣>食>住だけれど、ノルウェーの田舎では圧倒的に住>>>食>>衣。着るものは、寒かったり暑かったりしないための着心地のよいもの。食べるものは、調理が煩雑でないものを1品あるいは2品作って、食後は大きなお皿を食洗機にかけて回す。ほかの時間は、のんびり編み物をしたり、景色をみたり、散歩をしたり、庭やお家の手入れをしたりしている。逆に言えば、北欧の人たちは、小皿料理を色々楽しんだりすることや、毎日口紅の色を変えるということを忘れている(あるいはそういう文化がない)。

つまり、別に北欧の暮らしがいいな、ってわけではなくて、普段あたりまえに時間をかけているところが本当に人として時間をかけるところなのか、逆にいつも飛ばしているところは本当にやらなくてもいいのか、日本だったら日本のあたりまえに、北欧だったら北欧のあたりまえに縛られずに、自分のこれがいいを作っていきたいなと山小屋で思ったということを、いま文章を書きながら思い出しました。


そんなわたしは、今日公開する予定の某ユニットのとある情報解禁に備えて、ここ数日ずっとパソコンのモニターの中に吸い込まれそうな生活をしています。山小屋での気付きはどこへ・・

でもね。山小屋に行っても結局演奏しちゃうし、色んな大切な人たちのことを思い出して連絡とりたくなっちゃうし、いつもの生活がとても好きなんだなってわかって、それがきっと山小屋で得た一番大きな気付きでした。

#ノルウェー #山小屋 #生きる

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