自由とは多面的である視点やで?
ワシ語に慣れてる人は気にしないのは知ってるんだが、
駄文シリーズをだな、
もっと真面目に書けよ!と突っ込まれた、慣れてる人にさえ。
真面目に書かないから駄文シリーズなのに!
特に昨日?書いてたコレを言われた、数人に、マニアに。
真面目に、具体的に書かないあたりが優しくないよねと。
いや、ワシに細かい優しさ求めるの基本無理よ?
てかさ、
真面目に書くということは決めつけてしまう可能性あるから嫌なんや。
が、しゃーないから気持ち補足しよう(笑)
誰に向かって言ってんだか謎だがよ。
あくまでもワシの場合デス。
台本を貰ったとしよう。
ワシは速読というか、斜め読みするので読み込まない人です。
話の流れだけざっと追う。
んで、この台本のタイトルやら含めて何がテーマかをぼんやり思う。
話の流れを把握すると、
もれなく誰が軸で、
狂言回しのように話を回すか、
しないのか、
しないなら、それを補足しているのは誰か、
誰の台詞か、無言のあいつか、みたいなことをパッと探す。
役それぞれの台詞の前後に読み解く紐はあって、
別の役が話してる言葉のバックアップをしていたり、理由がある。
でだよ。
Aというキャラがいたとする。
こやつがその場で存在している理由も探す。
物語上の「駒」ではあるんだけど、駒には駒の言い分があるわな。
じゃあAという駒がよ、
「冷たい」印象の台詞ばっかり言うてたら、
とりあえずは単純に「冷たい」「冷徹」「冷酷」とか出るやん。
でもさ、それを見せるのに、やるのにですね、
何パターンもやり方はあって、言い方もあって、多種だ。
いかにも冷たく言い放つ感じで直立不動な揺れない感じでもいいし、
逆に腰巾着みたいに低姿勢で作り笑顔して相手に本音見せないのも、
同じ「冷たい」である。
この時点ですでに多面なわけ、キャラというものは。
そこに何を背負っているのか、葛藤しているのか、何かしらの背景もある。
「冷たい」に行きつくまでの理由もそもそもあるねん。
手法いろいろで、冷たいと思わせることは出来るわけですよ。
もしくはこの台詞のこの「単語」や、
キーワードを際立させればというのももちろんあるし、
場の空気を変える台詞を言うならばその時の台詞でやることも出来る。
で、そういうのをまぁ全体的に、個々のキャラでざっくりやる。
やるけど、年の功で数秒です、所詮。
深堀は原則しない、だって自分のじゃないもん、役者じゃないもん(笑)
ただ全体のパーツを把握しないとですね、
台本のそのものの持つ「起承転結」でもいいし、
「起伏」や「波」を感じることは出来ないから、把握はするよ、そりゃ。
一応、ポンコツ役者な山崎正悟もそんなようなことをしているらしい。
そこからこの役は…、あの役は…、みたいな深堀をあやつはする。
分析をする、自分の役の場合は自分の役の深堀もする。
ワシもするっちゃするけど、役者のそれとはやはりちと違うんだよね。
ここで場を切り替えをする「台詞」というか、
文頭の頭の言葉探して、
単純な仕切り直しにしろ、こいつがここでこれを言う理由を考える的な。
確かにご都合主義的な場面転換、話の進行の場合もあるけれど、
そうじゃないことの方が大半ではあって、
そこに実は意味があると個人的には思うので、ワシはそっちを見る。
空気感のこともあるしね。
ワシと山崎正悟の読み方が若干違うのはさ、
演出的・観客的視点と役者視点ということでもあるがそれだけではなく、
単純にワシと山崎正悟の「読み方」が違うからだ。
ここは間違えてはいけない、読み方は人それぞれだ。
少し前にこの手の話をした時に、
山崎正悟は読書感想文が苦手で、
あらすじ読んでそれで感想文書いたら先生にバレたと言うていた。
多分それは読むのも得意ではなく、主観を書くのも苦手だったからだ。
でもあやつはあらすじをまとめる能力はあるわけ、実は。
ワシは読書感想文は得意ではあるが、
あらすじをまとめろと言われたら超絶苦手である、嫌いだ。
だがしかし、読書感想文で賞取りまくってたワシ、
やっぱり根本的には速読で斜め読みで、要所だけ掴みつつ、
微妙なさじ加減で主観混ぜて書くから姑息!と幼少期から思ってた(笑)
こういうのは慣れというよりね、
自分の読み方なりがわかってるのか、わかってないのかだと思う。
視点でも物差しでもいいよ、なんでも。
そしてそこからどう広げるか、っつうのはね、訓練なり、
他人との会話だったり、身近なものに置き換えたり、探し方なわけ。
そこをわからないと速度は落ちるし、煮詰まる。
煮詰まるし、一面しか作れない。
ただ読書感想文なり、感想言うならそれでいいんだけど、
役を作る、全体を作るとなった時にはね、
多面の可能性っていう自由なものでないと厳しいわけ。
その感覚がないと、
じゃあこういう言い回しでとかね、
言い方も多種多様あって、それを探ることも出来ない。
探り方もいろいろなわけよ、やはーり。
速度落ちたら、ついてけませんよ、どこでも。
劇団×音楽部の芳賀鉄也とさ、
いろいろと話しつつ、
「イメージ」「発想力」やらなんやらの話もしてましたがね、
言いたいこたぁそりゃわかるですよ、老体は(笑)
歳違うから期も校も違うけど、同じ専門出だし、
彼の経歴や「実は行きたかった某劇団」話とか聞いてるとさ、
彼の中に根付いてる・見ているかもしれないものがね、
薄々というか、なんとなく推測はつくわけですよ。
んでまた聞きでワシの推測把握しつつ、
稽古場行っても山崎正悟がやっぱりなんとなく推測つくのはね、
共通言語な、認識な、常識な部分とかね、
目指した発端とかの下地はそりゃあるんだが、
でもそれは本来は関係ないんだよ、マジで。
ワシはそこらへんは補足でしかなく、
彼の台本の、演出の把握は自分自身の視点でしかない。
その軌道の方向性の探りのヒントの一つで、
もちろん歌もダンスも殺陣もあることもヒントで、
彼が稽古場で言ってることもヒントでしかない。
誰かにダメ出してる時も、
それは別の誰かに当てはまるダメであるヒントでもある。
自分で自分も…とそう思うか思わないかだけだ。
そもそも稽古場には情報量がたくさんある。
山崎正悟はそれを拾って探っていたのよね。
そこらへん役者の習性もあるし、
でもあやつが理解補足に必要なものなだけとも言う。
あとなんかあやつなりの何かで拾ってる。
つまりさ、
作品を理解するのに、
自分に何が欠けてるかわかってるかどうかなのだよ。
それわからんとイメージは広がらない。
ぶっちゃけ芳賀鉄也の作品って、何パターンも見せ方は可能だ。
そういう意味でも演劇的自由なのでござるよ。
ワシがやったら全然違うでよ?
老体は疲れるからしないけど、違うよ。
違うやり方で見せるよ、しかもそれ何パターンも出来るよ(笑)
役者を変えるということではなく、
言い回し変えるだけでもあれは変わるんだよ(笑)
ということで、この補足になってんだかなってないんだがのオチ。
己を知れ!だ(笑)
自分に何が出来て、何が出来ないのか。
足りないのか余計なのか、
自分の視点・物差しがどこなのか、
長いのか短いのか、なんなのかですよ。
足し算でも掛け算でも、
引き算でも割り算でもなんでもいいんすよ。
ケッケッケッケッ。
「言葉」「言語」を知るでもいいんすけどね。
そしてまた駄文化して魔境へと誘うのである。
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