読解すること、想像すること、妄想すること、言葉やら役割やらなんやらと。
胡散臭い人はだな、
先日また劇団×音楽部の南高麗中の三年生を送る会の演目にですよ、
胡散臭く混ざっていた。
うちの子?山崎正悟は別件で同伴せず。
だがしかし告白しよう、
我々は後日ゲネ動画を見て、
二人してああだこうだとブツブツブツ言い合っていたことを!
(半分懺悔)
割とたまにやるというか、
山崎正悟を他現場に引き連れてった時とか同伴観劇した時とかね、
そういう答え合わせでもないんだけど、
「ここはこうだよね」「あーだよ!」みたいな話はよくしていたのもあり、ま、もれなくやるよね、我々。
我々は性格悪いんか?と思いつつ、大事なことなんやで。
山崎正悟当人が当事者になった場合、
演技としてそれを反映出来るかっつう問題は怪しいんだけども(笑)
本来自分なりにやっていたことや視点に加えて、
ちょっと調教していた影響はあって、
割と初見でなんつうか「違和感」なり、
「ほんまはこれちゃうか?伝えることは…」とか、
「ここはこうしないと生きないよね」とかね、
なんか妙に具体的な話をぽんぽん言う。
言うだけはタダだ。
そういうもんだ、言えるうちが華である、言わせたもん勝ちである。
劇団×音楽部の作演の芳賀鉄也のってさ、
ぶっちゃけ初見サラリ読みでも台本としてやろうとしていることはね、
我々は正解かどうかは置いといてわかるっちゃわかる。
んで、演出してるの見てるとやっぱり正解かどうかは置いといて、
こっちの方向なんだなというのがわかる、求めているのがなんだかわかる。その方向性は我々何故か個別でも一致するわけさ。
「ってことはあーだよね」
「こーやってもいいよね」みたいな話をするのにね、
実はちょうどいいと言えばちょうどいい。
ワシの台本にはそれが存在しないから(笑)
妙にここ一年関わってるのもあるけど、
何故かワシと山崎正悟間ではなんか通じて把握しているくさい。
もちろん実際は微調整は存在するし、確定な正解ではない。
でもそういう話をする上で、
我々間には謎の共有しているものがあったりはするわけ。
だから話してて、ああだこうだとなる。
そこの一音違う!そこの言葉を立てるんじゃないハズ!とかよ、
なんか細かいことを実は裏でブツブツ言うています、ごめんなさい(笑)
多分、読解なんだよ、キモは。
ここであれですよ、ふと謎めくんですよ。
「読解ってなんすかね?」と。
いわゆる国語的な、読書的な「読解」とだな、
演劇的「読解」っつうのは同じではあるんだけど、
若干違うと言えば違うとは思うには思う。
国語的な、読書的な「読解」ってのはね、
話の要約する能力みたいなものがついてくるんだけども、
演劇的「読解」っつうのはさ、
物語全体のテーマや出てくる登場人物の役割、
関係性、意味っていう方面を突っ込まないとわからんのかなと思うわけさ、じゃないと「わからない」んだよ。
お客さんが妄想するのに必要なパーツが足らなくなる。
この役はこうであって、
こうだったら、
こう言わないとあかんだろ、
で、違うならこっちでああで、
さらにそうなら他の役はこの時こうである…みたいなね、
エンドレス妄想ですよ、やっぱり。
ここに立ち位置を指定される意味というのもある、距離感にも意味はある。無駄なものはそもそも存在してはいけないし、
常に意識し続けないといけない、舞台上では。
無意味なものを置くほど若くはないよ、芳賀鉄也さんは(笑)
ワシ、顔出すと「基礎じゃ、役作りじゃ!」と言ってるけども。
役の作り方は人によって違うし、
妄想引き出しも人によって違うし、
どこにどうあるかってのも環境やら状況でも違う。
そしてそれを話すのにね、
劇団×音楽部に発生している問題と言うか、課題っつうかはさ、
「共通認識・常識・知識・言語」問題なんだとは思う。
これはね、演出どうこうとか、台本どうこうじゃないんだよね。
もう個々の問題なわけ、
でもその個々の問題ってとてつもなく漠然としていて難しいんだよね。
どんな人らにしたってさ。
ま、それらをね、
演出がすべて統一・統率しろよ!って話と言われればそうなんだけど、
んなもん団体で違うわさ。
読解というか、呼応とも言う。
しつこく言うてるけど、
ワシと芳賀鉄也は作風と狙いなりがそもそも違うんで、
芳賀鉄也が劇団×音楽部で求める「役作り」は存在しないに等しい。
登場人物の置き方も違うし、
意味の作り方も違うし、
するならワシはそれを台本上(台詞)でしてしまうし、
そもそも行動だけでなく何かと制限をつけるので、
自由度と言えば芳賀鉄也の作品の方が自由で、演劇的である。
とてつもなくだ、あれは演劇的自由だ。
演劇的ゆえに我々が「あーだこーだ」となるとも言う。
無駄に山崎正悟も演劇的知識というか経験ある分、そうなるんだけどさ。
んで山崎正悟とワシ間の共通読解、視点は大差ないわけ。
ワシは自分でアレを弄るならこうとかああで、
山崎正悟は演じるならこうか、ああか…とかね、
視点位置は違うが、
全体の把握というところでは一致する。
いや正確には双方違うとこは違うんだけど、軌道修正のラインはわかる。「あ、だからここはこうしたほうがいいんだね」みたいなね。
すり合わせが割と早い。
でもこういうのって稽古場で話してたら時間ロスなわけよ。
少なくともワシはそう思う。(ワシはそもそも稽古嫌い)
んでそう言うコミュニケーション蓄積せなあかんわけよ、もう。
蓄積してそれぞれに、それぞれのやり方で気が付かないといけない。
まぁ近頃個別でщ(゚Д゚щ)カモーンってしてるけど、
そもそもワシは役者とサシでだな、
共有するものを探さないとあかんと思ってるからщ(゚Д゚щ)カモーンである。
劇団×音楽部諸君にちまちま出来ることがあるとしたらね、
やはりそんなことくらい。
んな人の作品でああだこうだした後、
山崎正悟に聞かれた。
「台本書く時に全部計算して書いてるんすか?」と。
ちょっとした間もそうだけど、
言葉やら単語やら演出的なこと、
照明や使わんけど音響効果やらなんやらなんやら含めて…の意味ね。
( ゚Д゚)…ちょっと待て。(今更案件)
計算して書いてるからああいう作風なんだよ!ワシ!
と言いつつ、しみじみと言いました。
無駄に全セクション知識がある分、
小屋機構とかわかる分、
ワシは舞台でやるものでだな、
書く上のそもそもの自由がなくなってんだよ!と言いました。
あぁ言いました、でもそれは本当です。
どんなにガチ公演の新旧VIPスタッフ揃えてもだな、
可能かどうかくらいの判断つくわけですよ、やはーり。
まぁいいんですけど、そんなことは。
オチとして言いたかったのはだな、
芳賀鉄也の作ろうとしているものは自由度が高いからこそ、
みんなもっと自由になればいいのになという話だ。
思考も意識も何もかも。
でもその自由がわからないっつうのが問題なんだろうなぁとね。
そしてその自由の中で泳ぐ方法も難しいんだろうなぁと。
ワシと山崎正悟のブツブツ会話を聞かせたいくらいだわ(笑)
もれなくものすげー口悪いけどな、ワシが(笑)
ハッハッハッ。
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