見出し画像

誹謗中傷の背景(6) … 人間関係の破綻

自らの境遇や試練に対して,人は2通りの対応をすると聞いたことがある。
すべてを周囲のせいにして自らを正当化して孤立するか,自らのあり方や周囲との関わりを真摯に自省して自己変革の道を歩むかのどちらかだという。

主義(考え)や主張(意見)の相違だけで,周囲(組織や集団,知人や友人)が特定の人間を排除・排斥するとは考えにくい。そこには必ず人間関係の歪さが介在していると思う。人が人を避けたり遠ざけたりするのにはそれなりの理由が双方にあると,私は経験からも思う。

「いじめ」に象徴されるような一方的かつ理不尽な攻撃が,何の理由も為しに,時と場,対象を変えてもおこり続けることはある。しかし,残念ながら,その人物(被害者)にも要因の一端がないとは言い切れない。もちろん,「いじめ」という行為や言動は決して許されるものではない。だが,被害者を装いながら実は,むしろ加害者であることもありえる。

人間関係におけるトラブルは,余程のことがない限り双方に原因がある。そして,ほとんどの場合,時が過ぎるに従って,自らの言動にも要因があったのではないかと冷静に考えるようになる。しかしながら,ほんの一部ではあるが,たとえ客観的に冷静に見ても両方に要因があることが明らかであっても,自らに非がないと言い張る頑迷な人間もいる。
自己正当化に終始し,自らに好意的な人間のみを相手にしながらも,決して誰の言葉にも耳を傾けず,被害者であると公言しては他者や周囲を非難する。自らの言動を決して顧みることはない。人の気持ちがわからないのだ。なぜ周囲や他者がそのような態度と言動をとるのか,なぜ離れていくのか,その原因が自らの言動にあることが,意固地なその人にはわからないのだ。認めたくないのだろう。

私は人間は変わりうることが可能な存在だと思っている。また,変わるかどうかを決めるのも個人の自由意思だと思っている。そして,それは強制されるものではない。しかし,人間が社会的存在であるという自覚があり,どのような形や状態であろうと社会と関わっているならば,他存在である人間や社会に対して関わる上でのルールは遵守すべきであろう。そして,他者との関係性を構築していく努力の中で,自らも人間として成長していくものだ。

だが,時にまったく理解の範疇を超える人物も存在する。決して短くはない,そして多くの人間と交わってきた私の半生において(たった1人ではあるが)そういう人間がいることを知っている。
信じがたいほどに歪な性格と,他者に対して思いつく限りの姑息で狡猾で悪意に満ちた意地悪な仕打ちを行い,それによって他者が不愉快な思いをすることをほくそ笑んで狂喜する異常性をもちながら,それさえも自らを「被害者」と演じて自己正当化を図る。明らかな誤りにさえ「弱者の皮肉」と謝罪や反省を口にすることはない。
そんな人物であれば,周囲が受け入れるはずもないだろうし,遠ざけるのも合点がいく。ほとんどの人間が離れていくだろう。私も相手にすべきではないと心底思うしかなかった。

「利害関係」があろうがなかろうが,そんな問題ではない。
よく人は,人間関係が破綻した後に,相手に対して「利用価値」や「利益」がなくなったから去って行ったとか,「利用するだけ利用して」とか口にする。確かに,そのようなこともある。仕事や金銭が絡む場合には多いだろう。
だが,人間関係はそれほど単純なことで結ばれるものではない。最初から「信頼関係」にまで至るのは希ではあるが,人間関係の深まりの中で強い「絆」がつくられていくのも事実である。逆に「利害関係」から「信頼関係」に発展することもある。偶々に同じ組織や集団,会社(職場)に属するようになったにしても,そこで構築される人間関係が「利害関係」だけで終わるとは限らない。

人間関係が破綻するには,どちらかに,あるいは双方に,それなりの要因があるからだ。互いを<理解し合う>(理解し合おう)という意思がない(<共感>を否定あるいは拒否する)者にはそもそも人間関係を構築することは無理なのかもしれない。

「自分しか愛せない者に人は愛せない」という言葉がある。人を信頼できない者に人は信頼を寄せることはない。人を疑い,人を批判することが前提で人を見る人間は,鏡のように人からもそのように見られ,接せられるのだと思う。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。