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「砂の器」と「悲の器」

年末に行った「本の断捨離」は,思わぬ効果もあった。大量の文庫本に埋もれてしまっていた本が見つかったり,探していた史資料がノートの間に挟まっていたり,同じ本を二冊も買っていたり…。そんな本の一つが『砂の器』と『悲の器』だった。

松本清張の小説『砂の器』を初めて読んだのは映画を見た衝撃からだった。その頃はハンセン病のことも知らず,主人公の演奏する「宿命」を背景に,風雪に耐えながら海岸を歩く父子の姿が強く印象に残った。まるでハンセン病に対する差別の厳しさと,それゆえに過酷な運命を生きなければならない二人を象徴しているかのように思われた。森村誠一の『人間の証明』を読んだときと同じく知らずに涙が溢れ,読み終えた未明に嗚咽したことを覚えている。そのときはまだ将来,ハンセン病問題に深く関わるようになるとは思いもしなかった。
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天候が荒れた冬に長島愛生園を訪ねると,薄暗く翳った空と青黒く淀んだ海を眺めながら,『砂の器』のあの場面が脳裏に蘇ってくることがある。人は運命に翻弄されるしかないのだろうか。

切り立った断崖から海を見下ろすとき,絶望のうちに死を選んだ人たちを追想してしまう。彼らは肉体が壊れていくことよりも誰からも存在を必要とされていないことに絶望したのではないだろうか。キルケゴールは究極の孤独を「死にいたる病」と呼んだ。抱きしめてほしい者に拒絶され,抱きしめたい者に去られるとき,人は絶対の孤独を知る。絶望という孤独に心が覆われたとき,死すらがやすらぎに思える。彼らを弱い人間とも,必要としている人はいるとも,言葉にすることさえが軽く響く。いかなる言葉も無力だ。死を選ぶ人間の思いは軽くはない。誰だって生きたい。幸せになりたい。孤独の中から抜け出したい。必要とされて生きたい。そんな思いを胸に精一杯生きた果てに自己に絶望したのだ。

死んだ人間をいつまでも自己正当化の手段として公言する者にはわからないだろう。自死した者すら自分を被害者にするための手段のように扱う人間には,ハンセン病も癩病もハンセン氏病も同じ病名としか思えないのだろう。自分の経歴を自慢するためのネタとしか目に映らないのだろう。そんな人間にとっては,ハンセン病もまた知識の対象・研究の対象としか理解できないのだろう。光田健輔が患者を解剖することに固執したように。ホルマリン漬けのままに標本とされた人間の哀しみなどわかりはしなかっただろう。
人間の死の背景には他者には決してわかり得ない苦悩や悲哀がある。
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高橋和巳の小説で初めて読んだのは『悲の器』だった。高校時代の恩師が全共闘世代の方で高橋和巳を教えてくれた。全編を流れる暗く鬱積した運命に抗することもできず破滅へと加速度的に堕ちていく姿に自分を重ねた。救済なき破滅は絶望でしかない。主人公である大学の法学部教授が従順と錯誤して自らの欲望の捌け口にした女性使用人に提訴されることから破滅へと堕ちていく過程で,彼の滑稽なほどの不器用さが見えてきて,涙が流れた。

思いとは逆の方向へと現実が流れていくことがある。願いとは反対の結果になっていくことがある。まるで蜃気楼を手に掴むかのように,そこまではすべてがうまくいっていると信じて,最後にすべてが無に帰してしまうことがある。

運命は変えることはできないのだろうか。破滅をとめることはできないのだろうか。この二つの小説に共通するのは,ちっぽけな自分を守ろうと,偽りを正当化しようとすればするほどに綻びが広がっていく虚偽の愚かさだ。人間を「器」に喩えて,一方は虚偽が幻でしかないことを描き,他方は真意が相手に伝わらず虚偽と断じられることの悲哀を描いている。

自己の正当性を主張するために,あるときは他者を愚弄し扱き下ろす。またあるときは,虚偽を捏ち上げて他者から誹謗中傷を受けていると被害者を装う。嘘に嘘を重ねれば,その嘘を誤魔化すためにさらに過激な嘘をついていく。果てしない虚偽の連鎖が生み出すものは空虚な孤独しかないのだ。現実世界ではだれからも振り向いてもらえないから,仮想世界で顔の見えない相手に向かって独り言をつぶやき続ける。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。