身分用語について(3) 「百姓」
網野善彦氏の『歴史を考えるヒント』をもとに、案外と知らない身分用語についてまとめている。
初めて網野善彦氏の「水呑」の解釈を知った時は、まさに目から鱗でした。それだけ従前の解釈が脳内に擦り込まれていたのだと思う。私が中学校で教えられたのは、「自分の土地を持たない貧しい小作人で、小作料を地主に収奪されて、食べるものがなくて、水しか飲めなかったから水呑百姓である」だった。まさしく貧農史観からの歴史解釈であった。
網野氏が奥能登の輪島を調査した結果、従来の「水呑」の解釈がまったく違っていることが判明した。
明治以降の資本主義発達の過程で、地租改正によって重い税負担を課せられた結果、地主と小作に分化していく農村社会における、貧しく苦しい小作農の姿から江戸時代を推測した結果、武士に年貢米を過剰に収奪されて極貧の生活を余儀なくされた「百姓」の世界が作り上げられたのだ。それは明治から大正時代の小作農の姿を投影した「貧農史観」であり、マルクス主義からの「階級史観」によるものだ。実態を見誤った歴史観と歴史認識が生みだした江戸時代像であった。
私が危惧するのは、このような歴史観あるいは歴史認識で書かれたものが、さも<史実に基づいた歴史像>であるかのように流布していることである。例えば、「水呑」=小作人=貧困・低位の実像で描かれていることである。教科書記述は改訂されているが、いわゆる「県史」「市史」の類いである。手元に、『岡山県史』『津山市史』など町史も含めて、県外の県史や市史も所蔵しているが、どれも随分以前(30~40年前)に執筆・編纂されたものである。史料として各村ごとの生産品目や生産量、年貢高などが身分別戸数とともに記載されているものもあるが、果たして厳密に統計しての判断が下されているのだろうか。本文(通史的解説)を読む中で、疑問に感じる部分も多々ある。
ちなみに『津山市史』第三巻近世Ⅰは、昭和48年発行であり、今から50年前であるが、次のように書かれている。
厳密に考察していないので何とも言えないが、「村の住民のほとんどは農民で、少数の大工・左官のような職人もあったが、これらはみな農業の片手間の兼業に過ぎなかったから、農民と見ても差し支えはない」の一文を読む限り、やはり疑問を感じる。
各自治体では、県から市町村に至るまで「史編纂」事業は行っている。特に郷土の歴史を知る上では貴重な基本文献である。だからこそ、正確な史料の考察と最新の歴史研究の成果を反映させてもらいたいと要望する。
当然、歴史観や歴史認識は時代の制約を受ける。まちがった歴史解釈も、思い込みからの史料考察も行われるだろう。それらは改訂すればよいのである。現在、新たな『津山市史』が執筆・編纂されていると聞く。
網野氏は従来の江戸時代像に対して疑問を呈する。
では、なぜ「百姓」=農民という誤解が生じたのだろうか。
網野氏は「農民」という言葉も昔からあったが、史料や文献には「農人」の言葉がよく用いられたと言う。
ところが、江戸時代の儒学者伊藤東涯はその著書で「農ハ百姓ノコト也」と記したり、大阪の医者寺島良安が編纂した『和漢三才図会』という百科事典にも「農人」を「俗云百姓」と書かれていることから、江戸時代には百姓=農民という思い込みが広がっていったと考えられる。
網野氏はこのような誤解が決定的になったのは、明治初期の「戸籍」ではないかと言う。
たかが「百姓」と「農民」のちがいではないかと言う人も多くいるだろうが、そのわずかな相違が歴史認識を大きく歪めてしまったのである。網野氏は、「明治政府の姿勢によって、日本列島の人々が古くから携わってきた海や山に依拠した様々な生業が切り落とされ、我々自身の視野から消え去っていくこと」になったという。
さらには、翻訳のまちがいもあったという。経済史の用語には「農」の文字が非常に多く含まれていたが、本来は「農」の意味はなかったと…。
確かに、西洋の小説や歴史書などを読んでいると、やたらと「農民」「農村」という訳語が出てくる。その訳語を信じて内容を理解していくとき、知らないうちに大きな錯誤が生まれてしまう。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。