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身分用語について(3) 「百姓」

網野善彦氏の『歴史を考えるヒント』をもとに、案外と知らない身分用語についてまとめている。

近世に入ると、「百姓」の中で年貢賦課の基準となる石高を持たない人々を指す言葉として「水呑」という語が出てきます。これは地域によって異なり、加賀・能登・越中では「頭振」、長門・周防では「門男」「亡土」、越前では「雑家」、隠岐では「間脇」、伊豆では「無田」などさまざまな名称で呼ばれていますが、これらすべて「水呑」と同じ無髙の百姓です。

初めて網野善彦氏の「水呑」の解釈を知った時は、まさに目から鱗でした。それだけ従前の解釈が脳内に擦り込まれていたのだと思う。私が中学校で教えられたのは、「自分の土地を持たない貧しい小作人で、小作料を地主に収奪されて、食べるものがなくて、水しか飲めなかったから水呑百姓である」だった。まさしく貧農史観からの歴史解釈であった。
網野氏が奥能登の輪島を調査した結果、従来の「水呑」の解釈がまったく違っていることが判明した。

…「頭振」と呼ばれる輪島の水呑についての泉雅博氏の調査によりますと、その中には漆器職人、それらを売る商人、船持・船問屋などが数多くいたことがわかりました。つまり、「頭振(水呑)」が土地を持っていなかったことは事実ですが、それは貧しくて持てなかったのではなく、その過半数が父を持つ必要のない人々、商人、職人、船持だったのです。我々が「水呑」の常識から連想する日雇のような立場の人々は、その中のわずかな人々に過ぎませんでした。

明治以降の資本主義発達の過程で、地租改正によって重い税負担を課せられた結果、地主と小作に分化していく農村社会における、貧しく苦しい小作農の姿から江戸時代を推測した結果、武士に年貢米を過剰に収奪されて極貧の生活を余儀なくされた「百姓」の世界が作り上げられたのだ。それは明治から大正時代の小作農の姿を投影した「貧農史観」であり、マルクス主義からの「階級史観」によるものだ。実態を見誤った歴史観と歴史認識が生みだした江戸時代像であった。

私が危惧するのは、このような歴史観あるいは歴史認識で書かれたものが、さも<史実に基づいた歴史像>であるかのように流布していることである。例えば、「水呑」=小作人=貧困・低位の実像で描かれていることである。教科書記述は改訂されているが、いわゆる「県史」「市史」の類いである。手元に、『岡山県史』『津山市史』など町史も含めて、県外の県史や市史も所蔵しているが、どれも随分以前(30~40年前)に執筆・編纂されたものである。史料として各村ごとの生産品目や生産量、年貢高などが身分別戸数とともに記載されているものもあるが、果たして厳密に統計しての判断が下されているのだろうか。本文(通史的解説)を読む中で、疑問に感じる部分も多々ある。
ちなみに『津山市史』第三巻近世Ⅰは、昭和48年発行であり、今から50年前であるが、次のように書かれている。

…本百姓の条件として相当の持高(10石以上)を要するようになった。この標準に達しないものを「小前百姓」といい、「小前」・「平百姓」とも通称した。また自分の農地を持たず、他の農家などに雇われて労役を提供して暮らしているものを「無高」「水呑み」と称した。 多くの村々では小前百姓や無高の数が本百姓をはるかに上回るのが常であった。
また、耕作の上では地主・自作・自小作・小作の別があって、地主や自作はいつも優位におり、小作はつねに地主に従属の立場におかれた。

『津山市史』(第3巻)

厳密に考察していないので何とも言えないが、「村の住民のほとんどは農民で、少数の大工・左官のような職人もあったが、これらはみな農業の片手間の兼業に過ぎなかったから、農民と見ても差し支えはない」の一文を読む限り、やはり疑問を感じる。

各自治体では、県から市町村に至るまで「史編纂」事業は行っている。特に郷土の歴史を知る上では貴重な基本文献である。だからこそ、正確な史料の考察と最新の歴史研究の成果を反映させてもらいたいと要望する。
当然、歴史観や歴史認識は時代の制約を受ける。まちがった歴史解釈も、思い込みからの史料考察も行われるだろう。それらは改訂すればよいのである。現在、新たな『津山市史』が執筆・編纂されていると聞く。
網野氏は従来の江戸時代像に対して疑問を呈する。

これまで、江戸時代は農業を中心とした社会であり、大名は農民から厳しく年貢を収奪していたと考えられてきました。確かに「百姓」を農民と考えれば、人口の八十パーセントが農民になりますから、そのような解釈が生まれるのは当然です。しかし、私は全国的にさまざまな事例を調べているうちに、実際には田畠で穀物を生産する厳密な意味での農業人口は全体の半分以下で、江戸時代は高度な商業と産業、有痛・金融組織を発展させた経済社会だったのではないかと考えるようになりました。

では、なぜ「百姓」=農民という誤解が生じたのだろうか。
網野氏は「農民」という言葉も昔からあったが、史料や文献には「農人」の言葉がよく用いられたと言う。

…毛利氏が編纂させた『防長風土注進案』という地誌の中で、百姓を「職人」「商人」「鍛冶」などに分類して、それぞれの軒数を記録しており、これによって百姓が江戸時代の身分呼称であって、農民と同じでないことがよくわかります。

ところが、江戸時代の儒学者伊藤東涯はその著書で「農ハ百姓ノコト也」と記したり、大阪の医者寺島良安が編纂した『和漢三才図会』という百科事典にも「農人」を「俗云百姓」と書かれていることから、江戸時代には百姓=農民という思い込みが広がっていったと考えられる。

網野氏はこのような誤解が決定的になったのは、明治初期の「戸籍」ではないかと言う。

…明治政府が壬申戸籍をつくるとき、職業は基本的に「農工商」とし、「百姓」「水呑」はすべて「農」として公的な帳簿に記載させたからにほかなりません。そして、これは全国各地で行われました。山梨県では、明治七年にこの戸籍に基づく郡別の職業別人口統計ができていますが、最も田畠の少ない都留郡は九十五パーセント、最も田畠のひらけている山名氏郡は七十七パーセントが「農」になっています。
さらに全国の職業別人口統計では、「農」七十八パーセント、「商」七パーセント、「工」四パーセントで、江戸時代末の日本は商工業の全く未発達な農業社会ということになっています。

…明治政府が百姓・水呑を農民と思い込んでおり、農業を発展させることを最大の眼目にすると共に、江戸時代を商工業の著しく未発達な社会と見て、欧米にならって商工業を発展させようとしたことが、背景にあると考えられます。…要するに農業を中心とする「農本主義」の思想を根底に持ちながら、欧米にならって産業を発展させようとしたのだと思います。

…そして、国家的な学校教育を通じて、「百姓」とは農民であり、江戸時代までの日本の社会は遅れた封建的な農業社会であると教えこまれるようになりました。その認識は戦後も基本的に変わることなく、牢固とした常識として日本人の中に浸透していったのです。

たかが「百姓」と「農民」のちがいではないかと言う人も多くいるだろうが、そのわずかな相違が歴史認識を大きく歪めてしまったのである。網野氏は、「明治政府の姿勢によって、日本列島の人々が古くから携わってきた海や山に依拠した様々な生業が切り落とされ、我々自身の視野から消え去っていくこと」になったという。
さらには、翻訳のまちがいもあったという。経済史の用語には「農」の文字が非常に多く含まれていたが、本来は「農」の意味はなかったと…。

…ドイツ語の「ライプアイゲネ(Leibeigene)」は「農奴」「奴隷」と訳されていますが、本来は「農」の意味は含まれていません。「ヘーリゲ(Hörige)」という語も「隷農」または「農奴」と訳されていますが、正確には「隷属民」です。また、「ヴィラージュ(Village)」というフランス語も、本来は「村」という意味ですが、「農村」と訳される場合も多かったと思います。

確かに、西洋の小説や歴史書などを読んでいると、やたらと「農民」「農村」という訳語が出てくる。その訳語を信じて内容を理解していくとき、知らないうちに大きな錯誤が生まれてしまう。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。