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選択できないこと

ハンセン病問題に関わって思い続けてきたことは,「逃げられない者」の思いと痛みを「逃げられる者」として,如何に受けとめていくかである。十数年前,まだ周囲が無知から「ハンセン病」に対して偏見をもって見ていた頃,「うつるからやめた方がいい」とか「なにも,あなたがしなくても…」という声を多く聞いてきた。

<被差別の現実に深く学ぶ>のテーゼが「逃げられない者」と「逃げられる者」の立場の違いを認識せずに立てられたのであれば,共闘も連帯も絵空事でしかない。このテーゼは「教師の姿勢」を問うだけに終わってはいけない。「逃げられない者」を「逃げられなくしている」のは誰かを自覚するとき,このテーゼの目的が明確にわかってくる。部落差別の現実が,差別の現実が完全になくなるまで,被差別者は「逃げられない」のだ。「差別の現実」は被差別者がつくっているのではない。部落があるから差別があるのではないように,ハンセン病においてもハンセン病患者がいるからハンセン病に対する差別があるのでもない。

部落問題とハンセン病問題,これらに共通点は多いが,「選択できない」ことが要因として差別されるということが最も重要な視点だと考える。近代社会の原理では,「生まれ(出自)」について人間は選択できないことであり,それゆえに如何なる責任も負う必要がない。この自明なことが長い間そうではないとされてきた。選んで部落に生まれたのではなく,たまたま生まれた場所が部落という,日本の歴史過程において生み出された「差別を受ける場所」「差別を受ける存在」であった。ただそれだけのために,結婚や就職,教育,日常の交際において様々な不利益を受けてきた。ハンセン病においても同じで,たまたま「ハンセン病」にかかっただけでしかない。

しかし,それを「六道輪廻」「業縁」「宿業」など宗教観念や「ケガレ」観を理由に,ハンセン病においては「業病」「天刑病」と名付けられて非人間的な扱いを正当化された。自分が選択していないこと,それゆえに自分の責任ではないことを,自分の責任であり,それがまさに「恥」であり「罪」であるかのように思いこませてきたのだ。「恥」でないものを「恥」とするとき,それは本当の「恥」となってしまう。問うべきは,だれがそう決めつけてきたか,だれが「恥である」としたか,だれがそれらを根拠に彼らと自分を分けて排除してきたのか,である。

かつて人権学習として「黒人問題」を題材にした授業を行ったことがある。実話を映画化した『タイタンズを忘れない』を自主教材化した。差別の要因を「偏見」「先入観」からとらえさせ,その克服を互いの「差異」を「個性」として認め合うことで「共生」できると考えさせた。
<真実を知る>こと,正しい知識と認識を知ることで「まちがい」に気づき,自らを変革し,自らの生き方やあり方を通して周囲を変革していく展望を学ばせた。映画という視覚教材を使ったことや,場面を切り取りその場面について考えさせたことで,生徒にもわかりやすかったと思う。

黒人問題にしても「選択できない」ことを理由にした差別問題である。差別の根拠がいかに不合理なものであるかを理解させたかったし,本人に責任がないことで受ける不利益や非人間的な扱いが「差別」であることを,この人権学習を通して理解してもらいたかった。

人権教育とは「人権を教える」教育と勘違いしている実践が多い。道徳や人権総合学習の時間でありながら,社会科の公民的分野にある「基本的人権」の学習と大差のない内容の授業もある。人権教育とは「人権意識を培う」教育であると考えている。人権意識を培うために「人権とは何か」に関する知識を教える必要もあるだろう。しかし,それらはあくまでも「人権」という概念を説明することでしかない。

人権教育とは「人権問題」「差別問題」の解消を目的にしなければいけない。不合理な差別や偏見が残存する社会は不幸な社会であり,人権が大切にされた社会とは考えられない。自己変革と社会変革は両輪であり,その根底に確かな人権意識がなければならない。参加体験型学習が流行している昨今だからこそ,シュミレーションやロールプレイで方法論(対処方法)を学ぶことよりも,自らの感性を磨く人権教育が求められているように感じる。

川元祥一氏は『部落差別を克服する思想』の中で「差別はひとつの競争の結果の差異を制度的に固定・凍結し,他のすべての面にそれを適応すること」であると定義している。
石瀧豊美氏は「…区別というのは,単なる<ちがい>ではなさそうです。他のさまざまな<ちがい>を無視して,たったひとつの<ちがい>を物差しとして採用したとき,それは差別へと近づいていきます」と述べている。

「差別」について教える教育は,「差別はいけない」という概念を教えることに終始し,「差別をしてはいけない」という心得を教えるだけの結果となって,「私は差別をしません」という道徳の問題に帰結してしまっているように思う。このような教育は「私」という個人の生き方やあり方の問題に終わってしまう。「武士がひどい。武士が悪い」は「差別はひどい。差別は悪い」と同じであり,だから「私は差別をしません」となる。

…「私は差別をしたことがない」というふうな満足を得ることが目的ではなく,社会に存在している具体的な差別の問題を解決すること,社会のどこかで差別に苦しんでいる人がいれば,その訴えに耳を傾け,解決に取り組むことができるような人間を育てることが,同和教育の目的なのではないか…「私が差別するか,しないか」の問題ではなく,社会に存在する差別の解決こそ,本来の目的のはずです

という石瀧豊美氏の意見に私は同感である。

差別の解決のためには何が必要か。それは「差別を見抜く眼(力)」と「差別を許さない行動力」である。そして,その前提が,思索であり,思索によって得る判断力だと考えている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。