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憤怒:西の丸騒動

『江戸の金・女・出世』に次のような逸話が紹介されている。この史実については山本博文氏は他の著書でも書いているが,池波正太郎氏の『仕掛人 藤枝梅安』にも作中話として使われていた。

文政六年(1823)四月二十二日夜,西丸書院番士が,同僚三人を惨殺,二人に重傷を負わせ,自らも切腹して果てた。
犯人の松平外記は,三百俵を給される旗本だった。この年三十三歳,父は西丸御小納戸頭松平頼母である。
西丸は大御所または将軍世子の住居で,当時は十一代将軍家斉の世子家慶がいた。御小納戸頭というのは主君の身の回りのものを用意する役職の長である。外記は,その惣領で,父在職中の時から西丸書院番士に召し出されたエリートである。

…外記はなぜこのような刃傷事件を起こしたのだろうか。
それは,将軍家斉の鷹狩りにあたって,かねてから望んでいた拍子木の役に抜擢されたことによる。
鷹狩りの時は,書院番士や小姓組番士が勢子となって鳥を追い出す役目を務めるが,拍子木役はそれらの番士を指揮する役目である。将軍の側で拍子木を打って同僚を動かすのであるから,非常に晴れがましい任務である。
ところが,先輩の西丸書院番士の中にも拍子木の役を望んでいる者が多く,事あるごとに嫌がらせをする。…外記も十三年間御番を務めたベテランだったのだが,まだ先輩の番士が多く,勤務で会うたびに悪口を言われ,またこのような名誉ある役は先輩に譲るべきだというようなことを聞こえよがしに言われたようである。

ほかに,この事件を書き留めた史料には,演習の時,外記の弁当に馬糞が入れられていたというような話ある。
このようないじめに耐えかね,外記は,ついに拍子木の役を辞退することにした。
先輩たちもこれでやめておけばよかったのだが,鷹狩りが終わった後の勤務の時,またまた外記に雑言を投げかけた。
拍子木の役を取り上げられたことを恨みに思っていた外記は,又候雑言を吐く先輩に,ついに切れてしまった。

この逸話,何も江戸時代だけではない。似たような話は,現代にも身近にも多く散見する。

少しからかった程度と思っているのは本人だけで,からかわれた方がどれほどに腹立たしく思っているかなど想像もできないだろう。(想像して,あえてそうすることが楽しくてしている人間もいるようだが…)
しかも,まだ一時のことなら我慢もできようし,恨みに思っても時が忘れさせてもくれるだろう。しかし,執拗に継続的に繰り返されれば,その憤怒は積み重ねられていく。雑言を吐く側は,相手が耐えていることに気づかず,調子に乗ってより辛辣さを増した悪言や皮肉,イヤミを口にしてしまい,ますます度を超したものへとなっていく。

からかいが「イジメ」に発展するのは,この両者の認識や感覚の違いに起因する場合が多い。また,継続されること,繰り返されること,その執拗さが「イジメ」の特徴である。この両者の認識の違いが限界点を超えたとき,惨劇が起こる。事の是非でも行為の善悪でもない。山本氏が書いているように「やめておけばよかったのだ」である。後悔先に立たずである。

相手の気持ちに気づかないことが悲劇を生む。
相手をいたぶることを心地よいと感じる自らの心根の歪みに気づかないから,いつまでも繰り返し続けるのだ。皮肉やイヤミを,いつまでも続けて平気でいられる人間性そのものが歪んでいるのだ。捻くれた性格と言ってもいいだろう。
だが,当の本人はそんなことは微塵も思っていない。すべて相手が悪いのだから,自己正当化などいくらでも理由づけられる。周囲に吹聴する自己正当化の言い訳も「くどく」なっていくのは,それだけ理不尽なことを自分がしている証左であると周囲が思っていることさえわからないのだろう。
要するに,相手が厭がっていることをしなければいいのだ。単純なことだ。

多くの場合は,そんなことで自らの人生を棒に振ることのバカバカしさから耳を伏せて相手にしない方を選ぶ。関わることを避け,雑言を無視する。親しい友人もそのように助言するだろう。しかし,当の本人は,相手が反応しないことをいいことに,それを笠に着て,ますます増長して,執拗に中傷と挑発を繰り返すことが多い。

「やめておけばよかった」のだ。それに気づかない傲慢さと慢心が命取りになる。自分にしか目が向かない人間や自分を価値基準に他者をはかる人間は,往々にしてこのような錯誤をおかす。
しかも,更にタチが悪いことに,このように拗れた場合,どちらが正しいとか,どちらが先にとかといったことは関係なくなってしまっていることに気づきにくいことだ。年月が過ぎるほどに,もはやそんなことはどうでもよくなっている。ここにも両者の間の錯誤がある。復讐や報復,仕返しに善悪の判断も合法性などもはや関係なくなっている。意趣返しであろうが逆恨みであろうが,そんなことは一切関係ない。「厭がっていること」を自分の勝手な理由や都合だけで,相手の迷惑を顧みず,執拗に続けること,その結果の惨劇である。だから「やめておけばよかった」のだ。
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続けて山本氏は書いている。

そのほか,多くの同僚が疵を負っている。
情けないのは,それまでは口々に雑言を投げ掛けていたくせに,誰一人として外記と渡り合った者がいないことである。これらの者は,卑怯者として,改易や閉門などの処罰を受けている。
同僚たちの外記に対する態度をみると,武士にはそれぞれ自尊の念が強いだけに,自分より優れた者や幸運を掴んだ者に強い嫉妬を持ちやすかったようである。

さて、私ならどうするだろうか。
時代や立場に関係なく,いつの日にか必ず報復するだろう。そう決断した以上,必ず報復する。法的に許されぬことであろうが,人間として許されぬことであろうが,私にはそれ以上に決して許せないことだから決断したのである。それは,いかなる時代であろうと社会であろうと関係ない。
ある程度ならば我慢もしようし,何を言われようと聞き流して相手にしないだろうが,やはり人間には限度と限界がある。憤怒もある。武士でなくとも自尊の念もある。恨みに思うことが自分にとって無意味であるとわかっていても,周囲や友人に宥められても,積み重なって心底に残ることがある。それほどに憤怒と憎悪は大きいのだ。

松平外記の心情は察して余りある。武士の対面や家名の保持など,ひたすらに我慢し耐えたことだろう。理不尽さに憤りを覚えながらも,事実無根の噂を流されようと陰口を吹聴されようと,イヤミと皮肉でからかわれ嘲られようと,ひたすらに忍んだであろう。
彼の刃傷を今風に「キレた」と簡単に表するのは安易であろう。

「イジメ」に関わった両者から話を聞くと,必ず両者の「言動の重さ」に相違を感じる。受けとめ方と言ってしまえばそれまでだが,なかなか相互の溝は深い。ただ実感することは,やはり「やめておけばよかったのだ」である。

『忠臣蔵』は史実と随分とちがって脚色されているが,この刃傷事件と重なって想像してしまうのは,やはり事の発端である。また,この種の復讐や報復が小説や映画になって人々の共感を得るのも,理不尽な社会への怒りよりも些細なことであっても相手にとっては心を深く傷つけられているからだろう。
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さて,あらためて自分はどうするだろうか。
やはり,いくらバカげたことであろうと,きっと何年経っても何らかの手段を用いて必ず報復するだろう。
冷静な判断をすれば,間尺に合わないことなど歴然であるが,それでもなお許し難いことはある。人間の怒りはそれほどに強いものだ。「やめておけばよかった」のに,その忠告さえ無視して続けるから,報復や仕返し,さらには互いにとって避けられた惨劇がおこるのだ。人の心に蓄積される「憎悪」とはそのようなものだ。

かつて暴力事件を起こした生徒がいた。彼は中学3年生であった。その彼が「ぼくは彼に小学校2年生の時,悪口を言われたり,からかわれたりした。そのことがどうしても許せなかった」と理由を話した。
身体も小さく力も弱かった彼は,時を待っていたのかもしれない。彼の心情を一概に否定したり咎めたりはできない。憤怒を解放するすべが他にあれば,とは簡単に言えない。

私もまた,時が来るまでは沈黙の中で待つだろう。中途半端なことで怒りは収まらぬだろうから。恨みや憎しみは,宗教などで癒されるものではない。自分の価値観で人を判断するものではない。いかなる理由があろうと法律がどうであろうと,いかなる迷惑を周囲にかけるかなど,そんなことはわかっているが,それでも許し難い相手には命がけで復讐する。私はそう思うし,私はそうする。

そこまで人を復讐鬼へと追い立てるのは,実は「イジメ」の構図と同じく,単純な「やめておけばよかった」ことを執拗に繰り返すことが要因である。
相手の怒りがわかるのであれば,それ以上はやめておくことだ。関わらぬことだ。些細なことの積み重ねが,相手の心に憎悪を蓄積させるのだ。人の心に憎悪と憤怒を抱かせたことを後悔する前に,関わらぬことだ。それが唯一の解決策だ。なぜなら,相手がそれを望んでいるのだから。しかし,それにもかかわらず,執拗に陰湿につきまとい,挑発的な誹謗中傷を繰り返し続ける相手には,いつの日にか必ず報復をする。
「やめておけばよい」ことをやめない人間に対しては,私にも覚悟がある。
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孔子の『論語』に,次のような一節がある。

子貢問うて曰く
一言にして以て
終身これを行うべき者ありや
子曰く 其れ恕か
己れの欲せざる所
人に施すこと勿れ

弟子が孔子先生に尋ねました。
「一生の内で,忘れずに実行して欲しいことが何かありますか」と。
孔子先生は答えました。
「それは恕(思いやりの心)です。」
「自分がして欲しくないこと(言われたくないこと)は,他の人にしないことです。」

同じ教えは,「黄金律」として多くの宗教,道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。

イエス・キリスト:「人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい」(『マタイによる福音書』)

ユダヤ教「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ラビ・ヒルレルの言葉)

ヒンドゥー教「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』)

イスラム教「自分が人から危害を受けたくなければ,誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)

これほどに多くの宗教の戒律に説かれるということは,それほどに守られにくいということかもしれない。宗教家が自身の信仰する宗教の「黄金律」を説教しながら,自らの言動を省みないことも多々ある。恥ずかしいことだ。

自分の言動が他者の心に不快感や屈辱感,怒りや憎しみを感じさせるならば,それは言うべきでない。語るべきでもない。自分がしてもらいたくないことは人にすべきではない。そして何よりも,その判断基準は自分ではなく相手なのだ。

私ならどうするか。時を待つだろう。外記のように直情的に報復はしないが,必ず,何年経とうとも時を待ち,絶対に二度と立ち上がれぬように叩きつぶす。人間を軽んじないことだ。甘く考えないことだ。憎悪は沈黙の中で蓄積されていくのだ。

随分と過激な文章を書いたと思うが,「明六一揆」を調べながら思うことは,昔も今も人間の心理など大して変わるものではないということだ。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。