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新たな部落問題の課題(2) 知識と認識

偶然に目にとまったのが、天雨徹氏のブログ『めざせ!年間映画鑑賞100本勝負』に掲載されていた「号泣した、まさに力作、60年ぶりの映画化 島崎藤村の『破戒』」である。
映画『破戒』を視聴しての感想を綴ったものである。

他者の文章や論述について論評する際に、内容よりも著者の略歴、特に出身大学など学歴を書き連ねてネチネチと批判する人物もいる。学歴や職歴が彼にこの文章を書かせたわけではない。何より批判するならば、著者ではなく著作であるべきだ。著作から彼の思想や考えを推論するのはまだしも、人格や人間性、日常生活にまで憶測して論じるのは的外れとしか思えない。私はそのような愚を好まないので、著者のプロフィールには触れない。

実は私はこの前田和男監督の本作『破戒』を観ていないので、内容に関して述べることはできない。木下恵介監督と市川崑監督の作品は観ている。本作も観たいと思いながら機を逸してしまった。

私が天雨氏の感想に注目するのは、部落問題への率直な気持ちを書いていることであり、その意見に今後の部落差別解消への展望の一端を見るからである。時代は確実に進んでいる。新しい時代には新しい解決の方途があるはずだ。昔の考えにいつまでも固執すべきではない。そう思わされる意見である。

「我は穢多なり.されど穢多を恥じず」
骨太な作品であり,かつ,純朴な作品でもある.だから少しぐらいリアリティに欠ける点もあるかもしれない.それでも,それ以上に心に突き刺さる.それは何か.この理不尽な差別に対して,主人公のように真っ直ぐ愚直に生きることに感銘を受ける.

天雨氏の素直な感想に希望を感じる。木下恵介監督のときも市川崑監督のときも、時代背景や世間も風潮が違ってはいても、実に賛否両論のさまざまな批判が流れた。住井すゑ原作の『橋のない川』が映画化されたときもだが、部落問題を題材とした映画が創られるたびに繰り返される過剰な危惧とそれを受けての教育現場の混乱があった。その最たるものが<寝た子を起こすな>論からの無責任な批判であった。

<寝た子>はいつまでも<寝た>ままではない。必ず<起きる>のだ。では、どのように<起こす>のか、その<起こし方>が常に議論になった。正しく起こすとは、誰が起こすのか…、結論の出ない堂々巡りが果てしなく続いた。上映反対の強硬意見も出た。つきまとう責任論にうんざりしていた。

親が士族出身というのが一体何になるのか.
今を生きるのに過去の名誉は必要なのか.
確かに先祖を敬うことは必要だ.それは,先祖があってこその今だからだ.
今こそ,思い込みや刷り込まれた過去のプログラミングを解放することが求められている.

部落問題の根本的解決に必要なのは、この「認識」ではないだろうか。松本治一郎の「貴族あれば賤族あり」の至言にも通じる。
「過去」や「先祖」にこだわり、とらわれることが部落問題を残存させているのだと明晰な論理がなぜ人々の共通認識となり得ないのか。

被差別部落民の先祖は「賤民」ではない、武士身分の末端(司法・警察)だと主張して、祖先のほこり(民衆を守っていた・治安維持)を取り戻せば、人々が従来の「認識」を改めれば部落問題は完全に解決(部落差別の解消)されると提言している者がいる。
私には逆に、そのような短絡的な発想、血筋や先祖の身分や家柄に固執する考えこそが部落問題を残存させていくことになると考える。

もちろん、部落差別が現存する要因は「封建遺制」だけではない。むしろ明治以後に「封建遺制」によって生じたさまざまな「歪み」を放置してきた国家の責任と、排除・排斥を当然とした民衆を含む社会のあり方(社会形態・社会体制)にあると考えている。


天雨氏の「知識」のまちがいを指摘しておきたい。

士農工商のその下に穢多・非人を創った徳川幕府.同和問題は今も存在するのだろうか.
教育とは平等に与えられる権利.こんなに重いテーマを島崎藤村が当時鋭く刳ったのは凄い.
江戸時代からの制度が,明治維新を経て帝国・ファジズム主義と終戦.そして民主化となった今でも,なんらかの形で差別が残っている.

「士農工商のその下に穢多・非人を創った徳川幕府」とは、明らかに近世政治起源説であり、(年齢はわからないが)彼が中学校か高等学校で習った(社会科か道徳)内容がそのままに現在まで「知識」として変わっていないのだろう。直接に仕事や実生活、興味や関心に関係ない分野は、学校で学習した内容のままの「知識」として残る。これが学校教育の恐ろしさでもある。

現在は教科書にもこのような記述はない(「士農工商」の言葉すら載っていない)。もちろん、徳川幕府が創ったわけでもない。「江戸時代からの制度」とは身分制度のことだろうと推測するが、「なんらかの形で差別」として残っていると解せば、当たらずとも遠からずであるが、江戸時代の身分差別が直接に部落差別となったわけではない。そのような「知識」はまちがっている。
しかし、このようなまちがった「知識」であっても、天雨氏の「認識」は部落差別・同和問題そのものを否定している。

極論かもしれないが、どんなにまちがった「知識」であっても、「知識」が不十分であっても、正しい「認識」によって「判断」を下すことができればそれでよいと私は思っている。

自説以外をすべて否定し、自説だけが部落差別の完全解消ができると豪語する人間もいるが、私には理解できない。いくら正しい学説であろうと、それは「知識」でしかない。「知識」を「認識」して、自らの人生の生き方・あり方において「実践」してこそ、その学説また生きてくるのである。マルクスの名言「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。重要なことは世界を変えることである。」 (『フォイエルバッハについてのテーゼ』)にあるとおり、実践してこその研究であり、学説であると私は思う。

天雨氏のように、たとえ「知識」にまちがいがあろうとも、彼は『破戒』に感銘を受け、理不尽な部落差別に憤り、差別を受けとめて生きようとする青年に心動かされたのだ。
そして彼はしっかりと認識したからこそ、「今こそ,思い込みや刷り込まれた過去のプログラミングを解放することが求められている」と断言できたのだ。

親が士族出身というのが一体何になるのか.
今を生きるのに過去の名誉は必要なのか.

この「認識」こそが、部落問題に対する究極の展望ではないだろうか。
過去において祖先が穢多であろうと非人であろうと、それが今の彼らに何の意味があるのか。武士であろうが賤民であろうが、それらは過去のことであって、現在にはまったく関係がない。過去に縛られて未来を閉ざすことこそ愚かなことはない。血筋・血縁・家柄などは過去の遺物でしかない。過去に規定されるなど言語道断である。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。