光田健輔論(11) 権力と人権(4)
今から20年前、「黒川温泉宿泊拒否事件」がおこった。
2003年9月17日、熊本県は「ふるさと訪問事業」の催行にあたり、アイレディース宮殿黒川温泉ホテルに、11月18日から1泊の予定で、国立療養所菊池恵楓園入所者(ハンセン病回復者)の宿泊を予約した。11月13日になり、事情(宿泊者がハンセン病回復者であること)を知った同ホテルから「他の宿泊客への迷惑」などを理由に宿泊を遠慮するように申し入れがあった。翌14日、県担当者が親会社であるアイスターへ出向きハンセン病についての理解を求めたが、ホテルは方針を変えなかった。そこで熊本県知事・潮谷義子の抗議文を県職員が手渡し、宿泊拒否の撤回を求めたがホテルは応じなかった。
詳しい経緯はここでは取り上げないが、私がこの連作において追及している問題に深く関わる記述が、宮坂道夫氏の『ハンセン病 重監房の記録』に書かれているので抜粋して引用する。
私も幾度か「黒川温泉宿泊事件」に私見を述べてきたので、ここでは言及はしない。また、別の機会にて論じてみたいとは思っている。
なぜハンセン病問題を訴え続けるのか。それは宮坂氏の「私たち人間の心のなかに、差別や無知の根本的な原因がある」ことをすべての人間が自覚しない限り、同じ悲劇は繰り返される。そして、自覚なき人間が<権威>と<権力>を手にしたとき、<人権>などは吹き飛んでしまうということこそを自覚してほしいのだ。さらに恐ろしいことは、誰しもが「自分の身には降りかからない」「自分には関係ない」「自分は大丈夫だ」と思い込んでいる無自覚だ。ハンセン病は不治の病ではなくなった。日本人が罹患することはほぼ皆無だ。だが、わずか数年前、世界中を席巻した「新型コロナウイルス感染症」が発生した。ハンセン病以上の<隔離>が叫ばれ、人々は互いを信じることもできなくなった。確かに幾分かはハンセン病問題やエイズ問題の教訓が活かされ、医学の進歩と医療体制の進展もあり、ハンセン病のような隔離には至らなかった。
だが、<差別や無知の根本的な原因>が顔を出しかけたではないか。まさしく、私が問い続ける理由がそこにあるのだ。
宮坂道夫氏は『ハンセン病 重監房の記録』の終章で、次のように述べている。
この誰もが当然と思う宮坂氏の指摘と提言であるが、一昔前には真逆が正論とされていた。国家や社会あるいは健常者のためには、病者は「犠牲」となってもよい、病者の「人権」は「抑圧」されても仕方がないが正論であった。「人間の根源的な差別意識」すら肯定されていたのである。
『長島愛生園30年の歩み』(1960年)がある。光田健輔は1931(昭和6)年に開園と同時に初代園長となり、1957(昭和32)年に退任している。実に26年間、園長として君臨していた。本書刊行の年9月に行われた、光田と後任の高島重孝園長、医務部長横田篤三(光田の三男)の対談「第6章 思い出を語る(対談)」の一部が掲載されている。
わずか数ページではあるが、光田や高島が患者の「人権」や「人道主義」よりも、「癩の絶滅」を優先し、そのためには療養所における<絶対隔離>が最善であると考えていることがよくわかる。ハンセン病を、というよりどんな病気にしても感染させたいと思っている人間などいないだろうが、「らい病を人に染して人権が良くなる訳はない」など、ハンセン病患者を犯罪者と同程度にしか思っていない。国際的な動向を把握しながらも自説に固執している。
この対談の前段では、大阪の外島保養院の移転について、愛生園ができる前から「島」への移転を計画していたという暴露話をしている。そして、光田は「…隔離と云う意味は断ちさえすればいゝですよ。今大阪に(外島保養院:療養所)置いておけば餅をまくようなものですからな。今大阪に置いておけば100円やって下さいとか、市中をふらふらするようになる。そうでなくても大阪はらいが一番安定しているんですよ。そのようなものを断つ。大都会に置けんようにした。東京でもなんでも、私はそう思います。」と述べている。「浮浪癩患者」をゴキブリなみにしか認識していない。
この対談からも、いわゆる「光田イズム」が<絶対隔離>あるいは<大家族主義>だけでなく、ハンセン病患者に対する<患者観>も含んで後進に伝播していることがわかる。
『長島愛生園30年の歩み』には、愛生園が開園以来勤務した全職員の氏名と役職が記載されている。医官として勤務した医師が他の療養所の医官や医務部長、園長として転勤していることも書かれている。光田の下で働きながら指導を受け感化されていることは、『救癩の父 光田健輔の思い出』などを見ればよくわかる。一時期は、全国の療養所に勤務する園長や医官のほとんどが光田の影響下にあるといっても過言ではない。そのような全国療養所長会議や日本らい学会が光田に反する決議をするとは考えにくいし、厚生省への圧力も相当に強かったであろう。これが光田の<権力>の背景である。ハンセン病医療の第一人者であり、日本のハンセン病対策の中心であり続けたことによる<権威>が、「人権」をも抑圧できる<権力>をもって君臨できた要因である。
私がこの「私論」で最も<問題>として明らかにしようと試みていることは、<権威><権力>を間近で見てきた人間がその影響を強く受けることで、無自覚・無批判のうちに同様の人間と化してしまうことである。あるいは権力をもつ人間を後ろ盾にもつことで、より過激な言動が許されると錯覚してしまうことである。<権威><権力>によって自己正当化がはかられていくことの恐ろしさである。それこそが社会的弱者にとって最大の恐怖である。
「特別病室」こと「重監房」が栗生楽泉園に設置されたのは、1938(昭和13)年であり、47(昭和22)年の廃止まで9年間運用された。私は光田健輔が「特別病室」を訪れたことはないのではないかと書いたが、毎年開催されていた「日本らい学会」が1943(昭和18)年に草津の栗生楽泉園で開かれていることから、光田が参加している可能性は高い。そうであれば、園内の視察として「特別病室」を見ていることも、実状についての説明を受けていることも予想できる。そう考えれば、光田にとって「特別病室」はその残酷さよりも成果に満足したのであろうか。彼は自著『回春病室』で、「…ことに患者の平和を害するようなものを主として全国からこの監禁所へ入れるようになって、一段と療養所は明朗になっていった」と書いている。光田は「入れられた」患者が「平和を害するもの」であったかどうか確認もしていないだろう。
光田が愛生園から「特別病室」に送致した人数は5人であり、収監中に2人が死亡している。この事実を光田は知っているはずである。しかし、彼はこのことに関して何に書き残してはいない。
2021年12月19日の「山陽新聞デジタル」に,衝撃的な記事「ハンセン病重監房 岡山15人収監 6人死亡判明、非人道性浮き彫り」が掲載されていた。
成田氏は<絶対隔離>のもう一つの恐ろしさを「特別病室」を例に明らかにする。それは徹底した療養所の閉鎖性と隠蔽性である。ほぼすべてが療養所の中で完結することができ、外部との遮断が可能である。
「特別病室」には監房の外に「医務室」があったが、使われた形跡は全くなかったという。収容された監禁者の傷を処置するために看護師がときおり訪れるだけで、医師は治療することもなく、運び出された監禁者の死亡を確認し、解剖するだけであった。
退所条項が書かれていない「らい予防法」においては、逃走防止、郵便物の検閲、職員への箝口令などを駆使すれば、外部に漏れることは少ない。療養所は、まさに「隔絶」された空間である。療養所は「管理する施設側」と「管理される患者側」の二極分化の世界である。「管理」は「支配」でもあった。
<権力>に立ち向かうには<集団>の力しかない。「特別病室」を存在を世の中に明らかにしたのも患者たちであった。患者の人権闘争は新聞各紙で取り上げられ、残虐な実態は国民に広く知られるようになり、政府も国会も動いた。そのとき、<権力>はひたすら事実の隠蔽と責任転嫁に終始した。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。